実録・幽顕問答より 古武士霊は語る 近藤千雄・著 潮文社 |
俗説を排す 宮崎「帰幽せる霊はみな各自の墓所にのみ居るものか」 霊「常に墓に鎮まりたるは余のごとく無念を抱きて相果てし輩か、あるいは最初よりその墓に永く鎮まらんと思い定めたる類にして、その数、いと少なし。多数の霊魂の赴く先は霊の世界のことゆえ言葉にては告げ難し」 宮崎「墓所に居らざる霊魂はいずこにて供養を受くるか。彼らもその供養の場に訪れるものか」 霊「地上にて幾百年も引き続きて行い来れる祭り事は幽界にてもだいたいそのごとく定まれるものなり。されば勝手に月日を改め、そのことを霊魂に告げずして執行すれば、それがために却って凶事を招くことあり。 なぜというに、霊がいつもの期日を思い出し祭りを受けに来るに、すでに済みたるを知り不快に思うが故なり。 地上にて同時に数力所にて祭祀を行う時には、霊は数個に分かれてそれぞれの祭場に到り、祭りを受くるものなり。たとえ百力所にて祭るとも、霊は百個に分かれて百力所に到るべし。もっとも余のごとき者の霊は一つに凝り固まりて、その自由は得難し」 われわれ人間が“霊”を想像する時、どうしても物的な一個の固まりのようなものになってしまいます。これは無理もないことで、ちょうど「太陽が東から昇り西に沈む」という言い方は間違いであってもそれ以外に表現のしようがないのと同じで、物的な脳を中枢として思考する人間の宿命といえるでしょう。 しかし実際は霊には霊的身体があるにはあっても、それは人間が想像するような固形のものではありませんから、右の武士の「霊は百個に分かれて百力所に到るべし」という表現を、まるでつきたてのモチを五十個百個の小モチにするような調子で分けられるかに想像してはなりません。 人間でも霊覚の発達した人は数カ所で起きている出来事を一度に知ることができます。それは霊的意識が発達して物的次元を超越した結果であり、霊界へ行けば誰でも、順調に向上していけば意識の範囲が拡大して、武士が述べているようなことが出来るようになるわけです。 その武士自身もその摂理を知っていながら無念・残念の思いに縛られて身動きがとれなくなっているのです。最後の正直な告白は人間にとって極めて大切な教訓を垂れているといえましょう。それについては“結び”の章で改めて述べることにします。 宮崎「墓地に居らざる霊魂はいずこに居るものか、おおよそにても承りたし」 霊「霊魂の赴く先はそこここに多くあれど、そは現界に生を営む者の知らで済むことなり。ただ、死後、各自の落着くべき所はあるものと心得ておればよし。死したるのちは、生ける人間の考えおることとは大いに異なるものにて、生ける者の理解の及ばぬものなり。理解の及ばぬことを言うは徒労なり。死すればたちまちに知れるものぞ」 宮崎「その儀一応はもっともなれど、仏教にては死後行くべき所を人に知らしめて安心せしむるを主眼とし、儒教もまたこれを説く。されば今この機にその真実を世人に知らしむるの必要、なきにしもあらず。儒仏の唱うるところ、いずれが実説なりや」 霊「儒仏の説くところを信ずるはみなその道におもねる者のすることにて、要するにその門に入りたる者を治むるための説にすぎず。死後人間の霊の赴く先は地上にありて空中にあらず。もっとも空中にも霊の世界はあれど、そこは死後ただちに赴くべきところにあらず。他界直後の霊の赴く場所が大地のいずこならんは今あからさまには告げ難し」 ここでも武士の本来の霊格の高さが歴然と表れております。言い方は抽象的ですが、実相をちゃんと捉えていることが読み取れます。 人間か死後ひとまず落着くところは大体それまでの地上の環境と似ていて、しかも金銭の必要性も病気の苦しみもなく、欲しいものは何でも手に入るので、みんなそこを極楽だと思い、これが宇宙のすべてだと考えます。しかしそこはいわば“一時休憩所”のようなところで、そこで精神的ないし霊的な病気を癒やし英気を養います。西洋では“常夏の国”と呼んでいます。 しかし、やがて霊の本性ともいうべき進化を求める本能が働きはじめます。その時期までどれほどかかるかは、各自の霊格によってまちまちです。が、きっと来ます。そして、さらに向上して行く資格のある者は、地上圈を脱して本当の意味での霊界へと突入して行きます。そこはもはや次元が異なります。「空中にも霊の世界はあれど、そこは死後ただちに赴くべきところにあらず」というのはそれを指しています。 宮崎「さほどまで告げ難きことならば、何ゆえに豊前の彦山というべき所と言われしぞ」 霊「敢えて彦山なりと断定して言いたるにはあらず。霊の世界はまず彦山のごとき人跡稀なる清浄の地、あるいは磯辺、あるいは島にもあるものなり。これらは魔所などといいて人々恐るる地なり。霊魂はそこにありて容易に人間の行う祭祀を受くるものぞ。これまであらあら述べたる前後をもって推量なさるべし」 宮崎「極楽浄土につきての仏説の当否は如何」 霊「(微笑しつつ頭を左右に振り、しばらくしてから) 極楽説は人の心を安んぜんがための手段方便にすぎぬ。生前にいかなる説を信じて死すとも、死後の実際とは甚だしく違うものにて、死後のことは死後に知らばよし。人の世にあるうちは世の掟を守り、死後のことに世話を焼くには及ばぬことなり」 宮崎「貴殿の返答は極楽は存在せぬとの意と思われる。ならば何故そこもとは去る二十二日に“三部経”(注@)を上げてくれと言いしぞ。三部経は極楽を説けるにあらずや」 二十二日というと二日前のことになりますが、そのころから少しずつ市次郎の口をついてこの武士がしゃべっていたようです。ただ宮崎氏が来るまではみなこれを市次郎のうわごととして受けとめ、ともかくも言う通りしてやっていた様子が窺えます。 霊「敢えて経が望ましと言うにはあらず。わが父のために読ましめたるにて、心ばかりの父への供養なり。供養は経に限らず、ただ父のためを思いて誠を尽くせば、おのずから通ずる理なり。石を集め火を焚きても霊はこの気を受けて喜ぶものなり。元来、経は空を説けるものにて毒にも薬にもならず、ただ僧侶に読ましめて誠を尽くすなり。そは誠を尽くすための手段なり」 宮崎「およそ墓所に鎮まる霊魂はいと穢らわしきものなり。しかるに当家の神棚には尊き神々を奉祭してあるものを、そこもとのごとき墓所に鎮まる霊魂が憚ることなくここへ来るとは如何なる故ぞ」 霊「新しき墓にて腐肉の臭気ある所に鎮まる霊魂は穢れあれど、余のごとく数百年を閲する者は、その骨肉すでに大元の気となりて穢れなく、霊魂も清浄なり。わが輩はただ人並みならぬ苦痛あるのみにて、清浄なる点は普通の霊魂と異なるところなし。故に神棚の下にもかくのごとく居らるるなり。ただし、悪行のために果てたる無念の霊魂は神棚の前には到り難し。余もみだりに他家へ行くことはならねども、当家には因縁ありてかくは来るなり」 宮崎「それがしは知らぬことなれど、今宵当家にて聞けば、二十二日の夕べにそこもとが、その夕べに限りて墓所に居り難き旨を述べられたとのことであるが、そはいかなるの理由ありてのことか」 霊「二十二日は郷祭(ごうさい)なるが故に古き神霊ご来臨遊ばされ、家々にて豊かなる清浄の気を受け入れるなり。されば余のごとき無念に凝り固まりたる新しき霊魂は遠慮するが掟なり。このことには深き理あれど、人間に聞かせても益なし」 宮崎「郷祭とは何のことぞ」 霊「一郷(ひとさと)の祭りなり」 祭りの動詞形マツルには祭る、祀る、奉る等があり、いずれも神々や祖霊を迎えて収穫と無事息災を祈り、あるいは感謝するという意があり、神前で奉納する舞いの神楽は神座(かみくら)が転じたもの、またいわゆる“おみこし”は御輿とも神輿とも書き、御神体または御霊代が乗るものとの信仰から生まれたものです。 シルバーバーチの説明によりますと、太古にさかのぼるほど霊界との連絡、つまり祖霊とのつながりが密接で、とくに春分と秋分、つまり春と秋の彼岸の中日には大々的に交霊の催しが取り行われたといいます。 少し前のところで武士は「幾百年も引き続きて行い来れる祭り事は幽界にもだいたいそのごとく定まれるものなり」と述べていますが、これはまさにその通りで、人間側がまごころをこめて行っていることはみな霊の側に通じ、よろこんで受けに来るそうです。 しかし立場を入れ替えて地上である特殊な慣習の中で生活した者が他界した場合を考えると、自分も同じ慣習で人間側から祀ってもらいたいと思うのは自然の情であるといえます。少なくとも地上的雰囲気から脱しきれない次元に留まっているかぎりはそれも止むを得ないことで、この武士の場合はその極端な例であるといえます。 自分の名前を刻んだ石碑を建ててもらうために数百年もその機会を窺っていたという話はまず日本以外の民族では起こり得ないことで、私がこれをきわめて日本的な心霊現象として紹介する理由はそこにあります。お家断絶−伝家の宝刀による切腹−石碑建立の嘆願のために憑依、まさに日本的ドラマで、その心情は日本人にしか理解できないのではないでしょうか。 なおこの箇所には宮崎氏の長文の傍注が付してあります。それを要約すると、人間も動物もその土地の神の分霊を受けて生まれるもので、一国には国魂(くにたま)があり、各地には産土神(氏神)がいることは古くから知っていたが、この度の武士の答えによると、一郷の産土神を祀れぱその神の分霊を受けた末々の古い霊までも通ずるということで、これはなかなか考えさせられることである、と。 宮崎「当家の祖父など、貴殿によりて不幸なる運命に遭える者の霊は今いずこにいるものか」 霊「彼等は同気相集りて、霊の世界のいずれかの界層に居るならむ。余は知らず」(注A) 宮崎「人霊と神霊とは霊界にて相違ありや」 霊「(神霊はむろん勝れたれど)人霊とても百千人に一人は勝れたる霊あり。無念・無実の罪にかかりて死したる霊などが相集りて大霊となり、山をも鳴らし洪水をも起こすなり」(注B) 宮崎「そこもとの望み通り石碑を建て七月四日と祭日を定め祭祀を怠らずば、そこもとは永くそこに鎮まるや。時にはその地を離るることありや」 霊「わが願望成就の暁には永くその地に鎮まるは無論なり。従来の苦痛も消失するに相違な く、又、已に苦痛なければ人を悩ますことのなくなるはいうまでもなく、かえって人の苦悩を憐れむの情起こらむ。これ正法によりて邪を正に帰せしむるの道なり」 宮崎「邪心を転じて正心となれば善き神となり社々に祀れる神々と同等とならるるか」 霊「顕世の法(律)をもって社を造り、その法を貫き、お上よりその社と定まり人民みなその通りに承知せば同等なり。幽と顕とが互いに一致せざれば成就し難し」(注C) 宮崎「無念に思うこともなく死したる者の霊は祟(たた)ることなきや」 霊「礼をもって葬られたる者は人並みの霊魂なれば人に祟りをなすことはなく、また常に墓所にのみ居るものにもあらず」 宮崎「不審なり。石を積み上げたる古き大塚などをみるに、いずれも礼を厚うして葬られたること疑いなし。しかるに、たまたま農夫などがこれらの古墳を掘り起こすと、ある者はたちまちに祟られ、ある者は三年も後に祟りを受く。時には墓を取り除きても何の祟りもなきこともあり。これはいかなる理由ぞ。そこもとの言えるがごとく礼をもって葬られたる霊魂が墓に居らずというならば、それが祟るとは訝(いぶか)しからずや」 霊「すべての霊が常に墓に居るにはあらざれど、来るべき時には来ているものなり。また初めよりその墓に鎮まらんと思い定めたる魂は常に墓に居るが故に、それらの墓をあばけばたちまち祟るものと知られよ。また墓を掘りたる時はたまたま霊が居らずとて、のちに戻りて己の墓のあばかれたるを見れば、何人の仕業なるかはたちまちに知らるる故に、三年、五年の後にも祟りを為すものぞ。 また死後向上してついに貴き霊となり清浄の境に入りたる者、あるいは上層界の到るべき所に行き着きたる者、あるいは主宰の神の御計らいによりて人間界に再生したる者(注D)、はたまた、悪事にのみ心を寄せ獣類に生まれ変わりたる者等(同前)はみな墓地との縁を離れたれば、モの墓をあばかれたりとて祟ることなし。 尊き霊となり清浄の境に入りたるを神明というなり。その種のものとなれば世界を守護するなり。されば余もこれより正しく祀らるれば、神となりて末永く人の世を守護すべく、その暁には、たとえ墓をあばかれたりとて、いかでか怒らむ。 ついでに教えおかむ。人の霊を祀るは墓または霊棚にするが受け易し。神々を祀るは神社または常に定めたる祭場にするが受け易し。また墓所をあばきて障りあるとも、それをことごとく祟りに帰せるは誤りなり。墓の穢れ、鬱滞(うつたい)の気に触れて発病することもありぬべし」 ここで述べられていることは、心霊学的にみても、神仏の祀り方について非常に貴重なヒントを提供してくれていると思います。と同時に、死後の世界の常識はぜひとも在世中に知っておかないと、ここで述べられているような厄介なことが絶えないことも教えています。 たとえば「初めよりその墓に鎮まらんと思い定めたる霊」とありますが、この種の霊は洋の東西を問わず非常に多くて、霊界側でも手を焼いているようです。これは霊にとっては思念こそが実在であるということが大きな原因となっているのですが、同じ思念でも、この武士のように死の直前またはその瞬間に思いつめた場合と、幼少時から教え込まれてきた宗教的信仰や慣習が精神の基盤となり切っている場合とがあります。 西洋の例を一つだけ挙げますと、キリスト教には“最後の審判”という説があります。この解釈にもいろいろあるようですが、一般的には地球の最後の日に死者が一堂に集められて神の裁きを受けるということになっています。そして死者はその日までずっと眠り続けていて、ガブリエルという天使のラッパによって目を覚まされることになっているために、そう信じ込んで死んだ者は延々と眠り続け、時おり目を覚ましては「まだラッパ鳴らんのか」と聞いて、まだだと知るとまた寝入るということを繰り返しているといいます。 まさかと思われる方も多いことでしょうが、それが事実であることはこの武士の霊からもおおよその察しがつきます。このあと泉熊太郎なる人物についていろいろな面が分かってまいりますが、地上的な尺度で見るかぎりでは、知性と教養と礼儀を身につけた当時としては第一級の人物だったに相違ありません。そのまま成人していれば余程の人物となっていたことでしょう。ところが切腹時の無念・残念がその魂に思念の足枷をはめてしまったのです。それがどうしても断ち切れないのです。 これと同じことは死刑囚についてもいえることで、その恨みの念に駆られて地上の人間を次次と犯罪へ誘っているのです。霊界通信がことごとく死刑制度の廃止を訴えているのはそのためです。墓をあばかれて祟りを為すのは低級霊のすることですが、物分かりが悪いからこそ始末が悪いのです。それが現実である以上は取り扱いに注意すべきでしょう。 その他については但し書きを要するものもありますが、大体において武士の言っている通りであるといえそうです。宮崎氏もこのすぐあとに傍注を掲げ、古い記録から実例を挙げて長々と解説し、学者の中には霊は死とともに散失すると頑固に説く者がいるが、少し頭を冷やしなさいと結んでいます。 そして最後に興味ぶかいことを書き添えています。それは、これまでは人霊であることを疑った上での質問だったが、これ以後は動物霊ではないとの確信の上での質問である、ということです。 宮崎「霊が幽界の居所より墓地に来ることは易きものか」 霊「(同じ内容の質問にいささかムッとして声高に)来たらんと思えばいつにても来らる!」 吉富「彼岸盆会(ぼんえ)には世俗みな霊を祀る慣習(ならわし)なるが、かかる折に霊魂は実際に来臨するものか」 霊「彼岸盆会は世俗おしなべて霊を祭る時と定めてあれば、霊界にても祀りを受くべき時と直感し、また死せる人も盆会には必ず来るものと思い込みて死せるが故に、必ず現れ来るなり。 されど余のごとく無念にして相果て、死して祭られざる者は、盆会などには臨み難し。ああ、生前武士たる身にてありながら、人体に憑きて怪しまれつつ石碑の建立を相願い、忌日の祭りを頼むとは、さてさて口惜しき限りなり。この胸中、推量し給われよ」 宮崎「管原道実、藤原広嗣、橘逸勢、早良親王等、いずれも高貴な方であるが、現世に祟り給いし故に神と祀られしと史実にあり。儒者はこれを信ぜず、世の禍いはみな自然の為すところとす。いずれが真実なるか」(注E) 霊「いかに高貴な人といえども、無念骨髄に徹して死せむには、世に祟りを為すこと必定なり。世に知らせて無念を晴らさんがためなり。余がかくのごとく市次郎の体を苦しめるのも、その口を借りて積年の願いを漏らさんと思うが故なり。顕界にて受けたる無念は顕界より解きて貰わねば晴るることなし」 この最後の一文はまさに真実で、そのためにわざわざ再生してくることもあるようです。地上生活における人間関係にはそうした前世との絡み合い、いわゆるカルマがかなりの要素を占めている場合があることは否めない事実です。 ただし、注意しなければならないのは、そうしたケースは、それ以外に手段がないというギリギリの線まで行ってしまった者に限られることで、割合からいえばきわめて少数派に属し、大部分は指導霊の導きのもとに正しい自覚を得て、償うべき地上の罪を潔く償って向上していきます。それが大原則です。 三千年もの体験を積んだシルバーバーチは人間界からの死者への供養の効果を問われて「別に害はないでしょうがたいして益になるとも思えません」と素っ気ない返事をしております。そして霊界は霊界でいろいろと受け入れ態勢を整えて救済していると述べています。 確かに、民族の別を超えた、人間の想像を絶する規模で地縛霊の救済活動が行われていることは私もよく知っております。ですから、三千年もの時を達観する霊にしてみれば「そのうちみんな収まるべきところに収まる」という見方をする根拠も私には痛いほど分かります。それはちょうど赤ん坊のクシャミーつにオロオロする若い母親を見て苦笑するベテランの母親の態度にも似ているでしょう。 しかし、こうして地上であくせくしている者には、そう達観してばかりはいられない事情がいろいろあることも主張したくなります。この武士がその格好の例を提供してくれていると思うのです。 ところで、ここでの問答に出てくる“高貴なる人”とは一体どういう意味なのでしょう。いうまでもなく高い地位の人、由緒ある家柄の人、あるいは学問のある人といった意味でしょう。ところが死後の世界の様子がだんだん分かってくると、どうやらそうしたものは霊の世界ではまったくといってよいほど通用しないことがはっきりしてきたのです。イエスが言った通り「後なる者が先になり、先なる者が後になることが多い」らしいのです。つまり地上では身分の低かった者が霊格が高かったり、高貴な身分の人が霊格が低かったりすることがよくあるということです。 では霊格とは何ぞや、何が霊性を高めるのかということになりますが、シルバーバーチに言わせると人のために役立つことをすること、難しい用語でいえば自分の存在価値を発揮する行為が霊性を高め、存在価値が高い人ほどその人の霊性が高いということになります。日本流に言えば“徳積み”です。男性は男性として、女性は女性としての役割を果たし、夫は夫として、妻は妻としての立場を守り、親は親として、子は子としての義務を果たし、為政者は為政者としての責任を果たすことがその基本であり、そこには貴賤上下の差も男尊女卑の概念も生まれる余地はないはずです。 ところが人間は五感という、霊的にいえば錯覚の中で好き勝手な価値基準をこしらえています。それは世界中の各民族、各時代についていえることで、くだんの武士は武士道華やかなりし頃の武士階級の倫理・道徳の規範、儒教思想を中心とする忠孝・尚武・節操・廉恥・礼儀を叩き込まれ、それが骨の髄まで染み込んでいたのでしょう。 もとより普通の死に方――といっても武士の世界のことですから刃傷沙汰の覚悟はできていたことでしょうが、少なくとも父の濡れ衣とお家断絶という恥辱の中での無念の割腹という最期を遂げていなければ、死後の実在への目覚めもスムーズにいったことでしょう。 この武士は気の毒な経緯による極端なケースといってよいかと思いますが、地上時代の偏った知識や信仰や学問が死後の目覚めの障害となっていることは事実で、洋の東西を問わず霊界側にとって厄介な問題のタネとなっているようです。これは何とか思い切った手を打たねば大変なことになるということで、霊界側において地上界の霊的覚醒のための大計画が立てられ、それが一八四八年の米国でのフォックス家事件をきっかけとして実行に移され、のちのスピリチュアリズム思想へと発展していったわけです。 注@三部経――仏教の各派がそれぞれの立場から最も尊重する経典三部を選んだものをいうが、ここでは浄土宗の三部すなわち無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経のことであろう。 注A霊の世界の階層――スピリチュアリズム的な言い方をすれば、霊界は親和力の法則で同質の者が集まって界層をこしらえているから、そのいずれかにいるであろうということで、宮崎氏も傍注で、平田篤胤が「冥府というのはどこか別の所にあるのではなく地上と同じ場所のどこにでもある」と述べている説と符合する、と記している。 注B山を鳴らし洪水を起こす――ここはその霊たちが怨んでそういう現象を起こすという意味ではなく、その後向上進化して守護霊・守護神(自然霊)と一体となり、物質界の造化活動に参加するようになるという意味である。『小桜姫物語』の中で指導霊が「風雨・寒暑・五穀の豊凶、ありとあらゆる天変地異の根底にはことごとく龍神(自然霊)の息がかかって居る」と述べている。 注C人霊を祀る神社――人霊が神として祀られている例としては明治神宮、乃木神社、松陰神社等々、大小合わせれば枚挙にいとまがないが、それが武士の言っている通りの過程を経て成立していく様子は『小桜姫物語』の中で小桜神社が成立していく様子が参考になるであろう。同書は潮文社から復刻版が出ている。 注D人間界への再生――再生はあるかないかと問われれば「ある」と答えざるを得ないが、それを単純に今の自分がそっくり生まれ変わるかに想像してはならない。そういうケースもなきにしにあらずであるが、きわめて特殊なケースに限られる。原則としては自我の本体の別の部分が物質界に顔をのぞかせる程度のことで、したがって自分は誰それの生まれ変わりであるとか、あなたの前世は誰それですと、歴史上の人物の名前を出すのはナンセンスだと私は考えている。 同じ意味で獣類に生まれ変わるというのも心霊学的に絶対あり得ないとは断言できないが、かりにあるにしても、よくよくの例外に属することであろう。いずれにしてもこの種の問題は実生活には何の益もないことなので、あまり深刻にあげつらわない方がよい。 注E世の禍いは人霊の祟りか自然のなすところか――石村吉甫著『神道論』(国書刊行会)に〈神道史上より見たる怨霊思想〉という項目がある。それによると、ここに挙げられた人物の死後に疫病や天災が相次いで生じたことは事実のようであるが、それをすべて彼らの怨念による祟りに帰するのは行き過ぎてあろう。霊が人間に障ることはこの武士みずからが実証しているが、何ごとも摂理あってのことで、善いことも悪いことも、思った通り、あるいは念じた通りになるものではない。参考までに吉村氏の見解の要旨を紹介しておく。 われわれ日本人の未来観はすこぶる楽天的で、したがって死後の祟りに関してもあまり重要視していなかったが、仏教の感化を受けるに及んで次第にその傾向を強め、死後の霊魂に対して恐怖の観念を伴うに至った。他方、奈良より平安時代にかけて社会情勢の複雑化に従い、社会の一線に立つ者が不慮の難に会い現世に怨恨を抱いて悲惨な最期を遂げる者が続出したのと相俟って、怨霊の思想を生ましめた。その思想が最高潮に達したのが平安中期以降、鎌倉時代にかけてである。 それらの怨恨が現世に対して種々の祟りをなし、それをもって生前の怨念を晴らす報復的手段なりと信ぜられた。それにはまず当時の実社会に異常な勢力を有した陰陽道にて称える疫病神との合体が認められる。すなわち医学的知識の発達しない時代にあっては病源はこれらの怨霊によって伝播されるものと信ぜられ、医薬よりもむしろその根源たる怨霊を和めることが疫病の治癒に力があると考えられ、さかんに祈祷を行って怨霊退散を念じたのだった。 次は天災に対する恐怖で、ことに火雷の激烈さは当時の人には到底解釈できない現象で、これをもって怨霊の報復とし、ひたすら怨霊に謝って身の無事ならんことを祈ったのである。 |
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