実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 ついに宿願なる

 さて武士は

「それはそれとして、先刻お願いおきし拙者の鎮まるべき地所のご評議は決定したるや」

と尋ねました。

宮崎「山本氏と諮りたるところ産土神社の社地に建碑の事は公(役所)の許可を得る必要があるとのこと。故にただ今の墓地に大きく石碑を造立し、周囲に石を畳みなどせばよろしからんとの儀でござる」

「石碑を大きくし石垣をめぐらすなどのことはお断り申す。墓なら一尺二寸にして七月四日とのみ記して遺骨の上に建てていただけば、それにて十分なり」

宮崎「さような無造作なことにては後年また祟ることなきや」

「されば、神号を受けねば元の人魂なり。祟らぬとも限るまじ」

宮崎「七月四日と祭日を定めて祭祀を行いても祟ることありや」

「神号なく元の人霊のままならば、たとえ従来のごとく強く祟らぬまでも、折ふしは祟りもすべく、また当家の守護も為し難し。もしも神号を受け清浄の地に鎮まることにならば、今後は祟ることもなく、却って当家の守護にも当たるべし。神号は墓地にては受け難し」

山本「わが神社の相殿に鎮め申さばいかがでござろう?」

「もってのほかの事なり。その儀はたってお断り申す。畏れ入ったる業なり」

“相殿”というのは同じ神社に二柱の神を祀る時のその社殿のことで、この場合は産土の神 と並んで祀られることになり、まさしく“畏れ入ったる業”です。武士が断ったのも当然ですが、それにしてもこの神職はずいぶん軽はずみなことを言ったものです。
 万一このとき武士が思い上がった気持ちから「ぜひそうしてほしい」とでも返答していたら、あとで大変な問題が持ち上がっていたことでしょう。また霊界においても、まさか産土神が怒ることはないにしても、その眷属が黙っていないでしょう。
 よい機会ですので、ここで神社について心霊学的な観点から述べておきます。神社というのは明治神宮や乃木神社のような人霊を祀ったものは別として、原則としては一国家、一町村の人事を治め、自然界の進化のための天変地異を受け持つ高級霊――宇宙誕生の当初から存在する自然霊で、日本の古典でいう龍神が祀られています。人間は神の子であるという言い方は普遍的な事実としては正しいのですが、具体的に言えばその土地の神、いわゆる産土の神の分霊を受けて生まれるわけです。
 日本の古代信仰は日本人のオリジナルの産物なのか、それとも帰化人が持ち込んだものかは専門家の間でも異論があるようですが、ともかくも結果的にみて日本人の伝統的信仰と神の祀り方は、スピリチュアリズム的観点から他に類をみない見事なものだと感心させられます。
 がしかし、いくら伝統の優秀性を誇ってみても、その本来の良さを理解していなければ何にもなりません。よくある誤解の一つが、神社の社殿に神が鎮座ましましているという考えです。
 神社があのように静寂と厳粛と神聖の雰囲気をかもすように出来あがっているのは、その社地に入り神殿に向かうまでの間に邪念や不快等の俗念を払い、波動を高めるようにしてある、いわば精神統一の場であって、波動の原理だけから言えば、別に神社にまで赴く必要はなく、シルバーバーチの言う通り、いついかなる場でも神との交霊はできるはずのものです。
 浅野和三郎著『小桜姫物語』によりますと、いよいよ小桜神社が建立され村全体でそのお祭りをして厳かな神事が執り行なわれていた時に、霊界の方ではそことは別の場所に霊界のお宮が建立されていて、小桜姫は“輿入れをする花嫁のような気持ち”でその宮に入ったと述べています。波動の原理から言えば地上の地理は関係ないことが、これで分かります。伊勢神宮といえば日本を代表する大神社ですが、霊界のお宮はほんの小さな質素なものだそうです。テレビの中継用のアンテナのようなものですから、それで十分間に合うわけです。
 その意味から言えば、武士の霊を産土神と相殿にしてもどうということはありません。産土神は無窮の過去から生き通しの高級霊であり、その間ずっと進化し続けているのですから、人間のすることでとやかく腹をたてたりすることはありません。
 しかし神社には眷属というのがおります。やはり大体は自然霊で、進化の程度が人間より高い者もいれば低い者もいますが、いずれにしてもその神社を守る役と、人間の願い事を取り次いで産土神に伝える役とがあり、守る役の自然霊はたいてい社地にいますから、不浄なもの、不潔なもの、邪心を抱いたものの侵入を嫌い、それを追い払おうとしています。それが「バチが当たった」と受け取られているわけです。万一その武士の霊が相殿に祀られることにでもなろうものなら、その眷属たちが承知しないでしょう。
 さて、また本題に戻りましょう。

山本「末社に稲荷神社あり。また仏閣も近き所にあり。いずれがよろしきや」

「末社、仏閣、いずれも好ましからず。他に清浄の寸地が欲しきものなれど、それが難き由なれば如何ともし難し。元の遺骨の上に建ててくだされよ」

宮崎「神号を受けたるからには、いかに墓地を清浄にしてもそこに居難きものか。また石碑を大きくするが悪しと言わるるは何か霊魂に差し支えありての事か」

「いかに清浄にすればとて、霊の位とその場所柄とが相応ぜずば鎮まり難し。また神号は墓地にては受け難く、霊の位によりてその鎮まる所それぞれに異なるものなり。社殿も石碑も相当せざれば居難きものぞ」

 余談ですが、原本では石碑の高さは一尺二寸となっていますが、現地を訪れて実物を見ると二尺以上はあるように見うけました。そういえば浅野氏の『幽魂問答』では“二尺二寸”と記してありますが、これは多分、筑紫新聞社が活字にして出版した際に現物を見て、これは二尺二寸の間違いと考えたのではないかと思います。しかし大門氏が“一尺二寸”を三度も四度も使用している以上は決して書き間違いではなく、当の武士の霊が自分の宿願が果たされることになって霊的に甦り、束縛から解放されて本来の霊格が発揮され、それに応じて石碑も自然に大きいものになったのでしょう。
 本人はあくまでも一尺二寸でよいと言っていたのです。それが霊性の変化とともにそれが石碑に反映したのだと私は信じます。というのは、私がよく知っている石工(墓掃除の会でよくいっしょに墓石を担いだ人)の話によりますと、墓石を刻る時にその霊のもつ因縁が反映して、きちんと寸法を見ながら刻ってるつもりなのに、出来あがってみると大きくなっていたり小さくなっていたりするというのです。戒名を刻り間違えることもよくあり、それがどう考えても自分の不注意とは思えないというのです。
 この武士の場合は石工が一尺を二尺と間違えたのではなく、大門氏や吉富氏を中心として話し合っていくうちに次第にその大きさにしようということになったのだと信じます。

宮崎「当家の主人も山本氏もそこもとを神と仰ぐことに同意なり。されど、そうするには公に願い出て官許を受くること必要なれば、今後三年ばかりはお待ちあれよ。強いて事を早く運ばんとすれば却って面倒となる恐れがござる」

「三年にても四年にても待つべし。かくてわれを神と斎(いつ)き、七月四日を祭日と定めくださらぱ、以後は当家を守護すべし。その儀は重ねがさねお頼み申す。それはさておき、先刻お頼みした御剣加持をしてくだされよ」

宮崎「折角のお頼み、承知いたした。さきほどは怪しき物と思いしゆえ切りつけたれど、もはやその儀は無用なり。さらばご免」

 と述べて仕度に取りかかると、武士も「かたじけのうござる」と述べて両手を膝の上に置き、鎮んで待っておりました。
 かくして無事加持も終わったのですが、最後の段階で武士は燭台を手にして宮崎氏の手にしている大刀の切先から鍔元(つばもと)までを熟視しました。このことが後で新たな話題を呼ぶことになるのですが、ここでは武士はただ一礼してこう挨拶しました。

「さてさて、おのおの方にはいたくご苦労をかけたり。先刻約せし通り、七月四日を祭りくださらば余いかでか悪しう酬(むく)いましょうぞ。市次郎も今日を限りに日を追って平癒し、かくて七年の後には当家には吉事あるべし。それを見て余が霊界より悦びて守護しおる証とし、また神となりし徴なりと知られよ。
 イザ出立せむ。おのおの方、門口まで送りくだされよ」

 そう述べて席を立ち、ヌサヌサと歩いて行く様子は血気盛りの若侍が颯爽と出で立つようで、とても大病人の市次郎には見えなかったといいます。居合わせた者たちもソロソロと門まで送り出ました。
 武士は門前で立ち止まり墓地の方を向いてこう述べました。

「余この身体を離るる時、市次郎が倒れるやも知れぬゆえ、おのおの方にて彼を助けてもらいたし」

 そこで何人かの者が側に寄りモい、山本、宮崎の両神職が神送りの秘文を唱え祓いの言葉を奏上しているうちに、はたして市次郎は左へ倒れかかりました。それを抱きかかえて家へ運び入れて寝かせました。
 武士の離れた市次郎はまさに大病人で、吉富医師が羽毛で薬を唇に塗ってやりますと、スヤスヤと寝入ったのでした。
 
 
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