実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 家相の吉凶を語る

 そのあと神職の山本氏が上座から下がり、武士の方へ向きを変えて、一礼して質問しました。

山本「拙者は当地産土神社の神職・山本参河と申す者でござるが、承れば貴下は加賀の住人・泉氏の御魂とのことにて、ゆくゆくは社地に鎮まりたきご希望の由、いかにも理あるお頼みでござる。市次郎の身体よりお離れなさるのであれば、及ばずながら拙者、ともかくも計らい申すでござろう」

「ご来駕の段、ご苦労にござる。拙者の身の上をお耳に達し、まことに面目次第もござらぬ。市次郎の身体より立ち退くことは今さら申すまでもござらねど、ただ社地に鎮まる事はひとえに頼み奉る。もっとも公に持ち出すことは憚りあれば、人知れず内密にして計られたし」

 長吉の時とうって変わって言葉も態度も丁重で、いかにも「お願いします」といった態度でした。山本氏は委細を承知し、一礼して退がりました。代わって宮崎氏が話題を転換して興味深いことを尋ねました。

宮崎「さて、これは当家の者の依頼にて尋ねる次第であるが、この家に何か障ることはなきや。ご存知ならば教え置かれよ」

「この家は三屋敷も四屋敷も合併して一つに成れるものにして、住居としては甚だ悪し。数個の屋敷を併せたるものは凶事の起こるものなり。このことは広く世間を調べれば明白ならむ。またこの縁の板に悪しき材木を用いてあれば、早く取り替えるがよい。また閨(けい)の間(寝室)に海中より直ちに夕陽の射し込むが悪し。すべて朝夕の日光を海より直接不浄の部屋に受くるは憚るべきことなり」

 さきの“俗説を排す”の中でこの武士は墓について注目すべきことを述べ、私もスピリチュアリズムの観点から私見を加えさせていただきました。結論から言えば“墓相”などというものはなく、要は葬られている“霊”の自覚の問題であること、ただし墓の穢れ、鬱滞の気に触れて発病することもあるから、何でもかでも霊の祟りに帰するのは間違いであるという忠告が添えてありました。
 私は高校生の頃から母に誘われるまま墓掃除の会に参加したのがきっかけで、三十代後半までのほぼ二十年間、墓地の清掃から無縁仏の整理・供養にかかわりながら、墓相についてのいろんな説を耳にしておりました。当時すでにスピリチュアリズムの勉強もかなり進んでいたので、どんな説にも迷わされることなく、ひたすら「霊を喜ばせることは良いことだ」という発想で誠心誠意で従事していました。その間にいろいろと霊的体験もしました。
 ところが、その後一人の霊能者との出会いで私の背後に無縁の霊が大勢いることを知らされました。私に対する悪意があってのことではなく、救ってくれたうれしさ、あるいは自分をかまってくれたうれしさのあまり。その後もずっと私を頼りにして付きまとっているのでした。この調子のままではいずれ処理しきれなくなるとの忠告に従って、私はそれきり墓掃除には参加しないことにしました。
 こうした体験から一つの得がたい教訓を学びました。いわゆる“霊障”といわれるものには因縁的なもの、悪意からのもののほかに、それとはまったく逆の感謝の気持ちでしがみついてくることから生じるものもあるということです。それはたとえてみれば、私が座敷で書きものをしている時に、やっとつかまり立ちをはじめたばかりの子供が、はいはいして近づき私に抱きついてくるのと同じで、子供には悪意も邪心もなく、至って自然なほほえましい情景なのですが、仕事中の私には迷惑千万なので、母親を呼んで連れて出てもらうことになるのです。
 このように“霊”にかかわることは一筋縄ではいきません。したがって人間の生半可な体験や勝手な憶測で墓相をうんぬんしても、霊自身がそれをどう受け取りどう反応するかによって善し悪しが決まってくることなので、一概にこうと決めつけるわけにはまいりません。
 そこでこの“家相”の問題ですが、私はこれは“自然の理”に密接にかかわったことで、決して摩訶不思議な要素はなく、至って合理的な摂理に基づいているのではないかと考えております。
 たとえば、かつては台所は北側にあるものときまっておりました。食料品を長持ちさせるための知恵からですが、今日のように冷蔵庫や冷凍食品が進歩してくると、明るい南側でも東側でもよいことになります。
 トイレもかつては風向きを考慮した位置が“吉”でしたが、水洗になった今日では“ご不浄”などという言葉は不似合いで、西洋式に“化粧をするところ”すなわちトイレ(ット)と呼んだ方が相応しくなり、またどこにあっても構わなくなりました。
 また南向きが吉相だといっても、都会生活によくあるようにすぐ目の前に巨大なビルが建ってしまえば北向きと同じことになってしまいます。このように東西南北という“方角”にとらわれた考えでは片づけられなくなってきたわけです。
 この武士の言うように家を次々と建て増しているものは凶事の起こる元というのも、何か得体の知れない力が作用するというのではなく、建造物の原理として不自然だからでしょう。また縁側に悪い材料を使ってあるから早く取り替えるようにと言っているのは、自然界の物体にはオーラがあり、それが何らかの放射性物質を放散しているのですから、イヤな臭いのするものはいけないというのと同じ理由で、それは当然取り替えるべきでしょう。将来オーラの研究が進めば、そうしたことがもっと明らかになることでしょう。
 武士が最後に述べていること、すなわち朝日と夕日が海から直接射し込むのは憚るべきことというのは、どことなく太陽は神聖なるもの、人間は不浄なるものといった考えから出ている感じがしないでもありませんが、それは別としても、自然の摂理からみて感心しない面があるのかもしれません。
 さて以上のような考え方に加えて私はやはり、墓相のところで述べたのと同じ“霊の実在”という要素を考慮しなければならないと考えます。高級な人霊や清浄な自然霊が出入りしやすい家屋、低級な人霊や俗に魑魅魍魎(ちみもうりょう)と呼ばれている薄気味悪い精霊が住みつきやすいという家屋があるようです。
 しかし私はそれは家の相というよりは、むしろその土地の性質、いわゆる“地相”が強く関連しているものと信じています。それを如実に物語っているのがこの武士の骨が埋まっている場所に建てられた前の家1――のちに普門庵を建てた場所――の例ではないでしょうか。
 それまでの数代にわたって奇怪な出来事や変死者が出るので不吉に思って現在の場所に新しく家を建てて移ったのですが、そこでこの度の市次郎の騒ぎとなっています。しかも御霊鎮めのために建てた普門庵へお参りに行った時に病みついています。結局その場所にまつわる“霊”の仕業だったのです。それが今やっと解決へ向かいつつあります。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]