実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 霊の揮毫(きごう)

宮崎「そこもとの在世中の年号のことは極秘になされたき意向をくみて尋ねることを控えるが、当時の都は大和なるや山城なるや、はたまた近江なるや」

「すでに山城に定まりし後なり。延暦(注@)よりはるか隔ちたり」

吉富「ご当代になりて後か」

「ご当代?」

吉富「家康公ご治世の後か」

「家康公? さようなことはいまだ聞き申さず」

吉富「頼朝公前後か」

「そのことはこれ以上お尋ねくださるな。年号と君父のことは決して語らずと先夕申せしにあらずや」

宮崎「ときに、先月出現の際の御筆を拝するに、なかなか凡筆にあらず。余が所持する例の書き物(誓約書)一通と石碑に刻むべき文字(七月四日)、それに加賀の地名と貴殿のご姓名等であるが、これらは他人には秘すべきものなれば、ここで他人にも見せられる文字を数文字お書きくださらぬか」

 そう言い終わらぬうちに早くも当家の主人が墨を摺って揮毫の用意をしました。宮崎氏が筆を取り上げて「是非とも願いたい、是非とも」と迫ります。
 そのとき「霊の鎮まるべき白木の箱ができたので見てほしい」との連絡が届いたので山本氏が座を立って大工の家へ向かいました。
 宮崎氏のたっての要求を武士はこう述べて断りました。

「亡霊が何の必要ありて顕界に筆蹟を残すべきぞ。目出たくも面白くもなきことなれば、止めに致さるべし。先月は書かざればご疑念の晴らざれば止むなく書きたり。かの書きものはこの事を明らかにせんがためにこそ書きもしたれ、今さら望まれて書くは実に愚かしきことなり」

吉富「そこもとの御剣が遠く隔たる宮崎家に伝わり、かつその御剣にて加持を受け、さらにその人より神号を授けらるるとは、よくよく深き縁あることにて、その人に一字なりともお伝えになれば一層御剣を大切に致されるはず。“剣を大切にせよ”とでも記し給え」

宮崎「“剣”の一字なりとも書し給え。そのほか何なりとご随意に筆を染められよ」

「いやはや理責めのきついことよ。さらば……」

と言って筆を取り、その筆先を熟視して、脱け出ていた一本の毛を引き抜いて脇へ置き、手を拭ってから〈楽〉の一字を書きました。
 折から山本氏が大工の家から帰ってきて、その書を見て感嘆し「さても見事な出来でござる。いまだ墨痕の乾かざる四、五百年前の古筆を拝覧するとは、世にも稀なる事でござる」と言いました。居合わせた人たちも「まことに珍しき事でござる」と言い合うのでした。

  

 その書は長いあいだ宮崎家に秘蔵されていたのですが、郷土史家か心霊研究家か物好きかは知りませんが、しばらく拝借したいと言って持ち帰ったきり行方不明となっております。時代が隔たるにつれてその価値の認識が薄れていくのは止むを得ないことで、要求に応じて貸し出したことを軽卒とばかりも言えないでしょう。この種のものはとかくこうした運命を辿るものです。
 その意味で宮崎氏がそれらを敷き写しにして残してくれたことは有難いことです。本書では止むを得ずに縮小してありますが、原本に綴じ込んである原寸大のものを見ると。その筆勢は見事なもので、泉熊太郎の性格の強さと教養の豊かさがしのばれます。
 また、こうした事実から。人間の性格や教養、人柄、その他、地上で身につけたものはすべて肉体ではなく自我の本体である“霊”にそなわっていることが分かります。シルバーバーチは「人間は霊をたずさえた肉体ではなく肉体をたずさえた霊です」と言い、その意味では今こうして地上にある時から立派に“霊”なのであり、死んでから霊になるのではないことを力説しています。
 この筆さばきのみならず、凛然たる古武士の風格、お国訛り、記憶、習性のどれ一つとっても、およそ庄屋の若旦那・市次郎のそれでないことは明白です。つまり加賀の武士・泉熊太郎がそのすべてをそっくりそのまま携えてあの世へ行ってるわけです。この一事を考えても、この心霊現象は人間の個性の死後存続を証明する生きた証拠であると同時に、地上生活においては結局霊性を磨くことになるようなことをするのが一ばん大切であり、一宗一派の信仰や一時代の流行思想に染まり、伝統的思想や慣習をかたくなに守ろうとすること――それもある程度までは寛容的であってしかるべきですが――必ずしも死後に始まる第二の人生にとってプラスにならない、否、ともすると手かせ足かせになることを教えております。

注@延暦――都が長岡から山城へ遷され平安時代が始まった年号。平安時代は建久三年(一一九二)に頼朝が鎌倉に幕府を開くまでのほぼ四百年続いた。
 
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