実録・幽顕問答より 古武士霊は語る 近藤千雄・著 潮文社 |
所持品のせんさく 原典の記述どおりにいくとここで再び地理のせんさくに入るのですが、すでに述べましたように、当家の近隣の地理は遠慮したいという気持ちから削除することにしました。 現在の子孫の方も絶対に秘密にしておきたいというお気持ちではありません。それはもうすでに新聞社によって活字にされ、その現代版を浅野和三郎氏が昭和五年に出しておりますから、調べようと思えば調べられることです。現に私が今回それを突き止めております。しかもすでに百五十年も前の話ですからいわば時効になっていると言ってもよいでしょう。また心霊学的に解明してみれば少しも気味の悪いいことでも恥ずかしいことでもないことは、これまでの私の解説でもお分かりいただけたと思います。 私が当家の姓と現住所の公表を差し控えるのは、あくまでも一種の礼儀としての遠慮とご理解いただきたいと思います。 祠に収まった高峰大神の石碑 私が現地を訪れ近所の人から「その家ならこの道をまっすぐ行った所です」と言われて歩いて行くうちに、突如として左側に写真でごらんの通りの祠が見えました。その時の感じが想像以上に明るかったのが印象的でした。私は瞬間「これだ」と思って石段を上がり、正面の〈高峰大神〉と右側の〈七月四日〉の文字を確認してから、手を合わせてこの度の奇しきご縁を報告し、この事実を公表することのお許しをお願いしました。 それから写真を撮らせていただくことの失礼を詫びてから、少し下がって良い位置を探していると、下を通りかかった婦人が駈け上がってきて、「折角ならきれいにしてあげましょね」と言って垂れ布をきれいに揃えてくれました。その雰囲気がいかにも人間の襟元を整えるのにも似ていて、実にほほえましく感じました。 その方はいつもササキを枯れないうちに取り代えてあげているとのことでした。そして今でも七月四日には近所の人たちも加わって、ささやかなお祭りをしているとのことでした。百五十年ものあいだ欠かさず斎(いわ)われて、さぞかし高峰神もお喜びであろうと拝察した次第です。 さて続いて話題は泉熊太郎の所持品のせんさくへと進みました。 宮崎「ご切腹のみぎり、ご所持の品は大小の刀のみにて他には何もなかりしか」 霊「大小は切腹の日まで所持せしが、他には別にさしたる物もなかりし」 山本「旅中の用金なども定めし所持されていたことでござろう」 この問いにはすぐには答えず、何やら考え込んでいる様子でしたが、やがて 霊「イヤ、さしたる物はなかりし」 宮崎「前の話によりて太刀は拙者の家の所蔵なることは知れたるが、小刀は今いずこに有りや。この世にまだ有りや、それともすでに錆びて朽ち果てたるにや」 霊「死しては顕世の事は明瞭には知り難きものなり。されど顕世にて魂を凝らしたる事のみはよく知らるるものなり。今貴君の家に伝わる御剣は、われ父母の教訓を破りひそかに持ち出し旅中に帯したるものにて、父だに家に遺し置きたるほどの大切なる一振りなれば、余は絶えずこれに心を注ぎたり。義に詰まり止むなく切腹したる時は一瞬意識を失い打ち忘れたれど、霊となりてはいよいよその太刀の慕わしく、幽界よりその所在を突き止め置きたり。貴家の所有となる前はここより西に当たる島のごとき山の尾の数軒ある家の一軒に所蔵されたり。小の方はたとえ高価のものとは申せ、余にとりてさしたるものにはあらざれば、露ほどにも心に掛けておりませナンダ。それ故に今いずこにありやは知り申さず」 傍注で宮崎氏はこれは個人的見解だがと断ってから「この言葉から考えると一つの事に凝ると他の事が疎かになる道理で、俗世的なことにあまり夢中になると霊的成長が止まり霊力が弱くなることが考えられる」と述べています。これはまさにその通りで、高等な霊界通信が異口同音に説いていることです。人間は“霊をたずさえた肉体”ではなく、“肉体をたずさえた霊”であることを考えれば、それは当然のことでしょう。 山本「旅中の手荷物、路用の支度金なども所持せしならん」 吉富「渡しもあり旅宿もあれば、山本君の申す通りなり」 宮崎「両人の申すごとく、金子(きんす)など定めし所持せしはず」 霊「それは申したくなき旨もござる」 山本「金子のことは穢らわしい故にそう言わるるか」 霊「そうではござらぬ」 宮崎「金子の額は覚えておらるるや」 霊「国を出る時は黄金十一枚(注@)所持せしが、六年のうちに少しは使えども、まだ半ば余りは所持せしなり」 と述べてから急に表情が固くなり 「これなど早く世に散りつらん」 つまりすぐに盗まれてしまったことであろうと言いながら鋭い目つきで家中を見回しましたが、すぐに思い直したように 「ああ、惑えり」 と言って元の表情に戻って言葉を続けました。 「すでにわれを神霊として祀りくださることになりたる上は、このことをはじめ、これまで余に対して無法を働きたることども、などで怨みとせむ。今さらあげつらうも甲斐あらず。太刀は貴家にて伝えくださらば幽界にありていかばかりか悦ばむ。また当家の者が余を神として怠りなく祀りくれなば、余もつとめて家運を守護すべし」 吉富「貴殿すでに神霊となられし上は、祈願すれば何事も成就なさしめ給うこと必定でござろう」 霊「人民の祈願は余のごとき凡霊の力にて成就するところにあらず。朝廷より春秋恒例の祭祀をなし給う神社の神々の与え給うことなり。余はこれまで当家に障りをなしたる罪深き霊なるに、神と祀られしにより、その報いとして当家を守護するまでにて、広く世の人々の祈願を受くることなど思いも寄らず。 四季の循環。五殻の豊穣、万民の安寧などの大事は量り難き道理あるものにて、世に吉事凶事のある摂理は今御身達に述べたりとて耳には入らざるべし。されば今後もし余に向かいて祈願する者あらばご両人より是非ともお止めくだされ」 ここでもまた私は、これほど卓越した見解を述べる霊がなぜ数百年ものあいだ無念をかこってきたのかと思わずにはいられません。この一節の中に泉熊太郎の本来の霊格の高さが如実に示されているように思います。 最近の自称霊能者の言を聞いていると、こうした霊界の諸相とその背後の摂理についての理解がいかに不足しているかが痛感されます。ウン万円出せば因縁のすべてを取り除いてあげるとか、背後霊のことが分かるのは自分だけとか、願い事は何でも叶えてあげるとかを平然と言ってのけるのは、実は霊的実在の真相について無知であることをさらけ出しているに過ぎません。 私のもとに「騙されました」という手紙や電話がよく届けられます。そのたびに私は、「人にすがる前に人間とは何か、霊的能力とは何か、人間と霊界とはどうつながっているかについてまず自分で勉強なさい」と申し上げることにしています。 さて祈願とは何かということがよく話題にされますが、これは私が述べるよりも、霊界生活三千年のシルバーバーチの霊言に耳を傾ける方がよいでしょう。 「霊界の方では人間の祈りをどう見ておられるのでしょうか」という質問に対して次のように答えております。 《祈りとは何かを理解するには、その目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するように陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴える力をもった波動を起こすことはできません。 私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意がこもっておらず、それを口にする人みずから、内容には無とん着であるのが通例です。永い間それをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかし、いかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなりません。 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れるための手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果的連鎖関係を寸毫も変えることはできません。 人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出る以外の祈りのすべてを無視されるがよろしい。そのあとに残るのが心霊的ないし霊的であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果なのです。 あなたを悩ますすべての問題と困難に対して正直に、正々堂々と、真正面から取り組んだ時――解決のためのありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力をもつ霊に対して、問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。そして、きっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態をありのままに見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂そのものの祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものが、それに相応しい当然の結果を招来するからです。このように、一口に祈りと言っても、その内容を見分けた上で語る必要があります》 結局そこまでが人間側からの祈りの正しいあり方であるということで、それから先のこと、つまりその祈りに対していかなる回答があるかは神々の決めることであり、それを素直に受け入れないといけないということでしょう。 別のところでシルバーバーチは「“祈ること”は“要求すること”ではありません」と言い、「人間の要求を聞いていると、それをそのまま叶えてあげたらかえって好ましいことにならないようなことばかりです」と耳の痛くなることを言っております。 こうしたシルバーバーチの霊言と泉熊太郎の述べていることを併せて吟味なされば、霊界からの人間界への働きかけのおおよその原理がお分かりいただけると思います。もとより具体的な奥深い摂理は「御身達に述べたとて耳に入らざるべし」でしょうが、実はよほどの高級霊でもよく分からないことがあるらしいのです。 注@黄金十一枚――私の手もとには金銭についての専門書がないので日本国語大辞典(小学館)で調べたかぎりでは、金貨の価値は時代とともに大きく変化してきており、例の大判・小判というのは江戸時代の少し前からのことらしく、この武士の当時とは異なるようである。が、大ざっぱに六年で半分あまり残っていたところをみると、一年がほぼ一枚で過ごせた計算になり、大変な価値があったことが察せられる。それは同時に、この武士の家が大変な禄を食(は)んでいたことを物語っているとも言える。 |
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