輪廻転生
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットソン/J・フィッシャー・著
片桐すみ子・訳 人文書院
 
第2章 私たちが還っていく故郷
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 死と空虚とは堅い大地のようなもの
 その上を生命あるものは歩いていく
            アラン・ワッツ


 古代チベット人は、ひとことで生と生とのあいだの中間状態にぴったりのイメージをいいあらわした。バルドという言葉がそれで、文字どおりの意味は島と島をへだてる空間をあらわす。バルドは、島のように狭苦しい肉体を離れた魂にとって、きわめて重要なできごとに満ちた空間である。
『バルド・ソドル』という8世紀に書かれた本がある。西洋では『チベットの死者の書』の題のほうが通りがいいこの本には、死んでから次にこの世に生まれるまでのあいだの意識の段階が描かれており、死の扉をこえた魂はつぎからつぎへと姿かたちのない意識上の体験に遭遇していく。何世代にもわたる体外離脱の旅の資料をもとに編纂され要約されたこの本は、いまでも臨終を迎える人や死者のまくらもとで読み上げられるという。肉体を離れた魂が危険の待ちうけるバルドをうまく渡りおおせて、二度とこの世に生まれてこなくてもすむようにと願うのだ。『チベットの死者の書』によると、中間世はこの期間を象徴する四十九日のあいだ続き、「クリア・ライト」につつまれて喜びにみちあふれるところから始まり、「すべての善行や悪行をありありと映しだす」カルマの鏡をのぞきこみながら取り調べをする冥界の王に出会うまで続く。
 チベットのバルドにあたるものはさまざまな呼称でほかの文明の記録にも出てくる。たとえば古代エジプト人――ふだんは粗末な家に住みながら、墓だけは立派なものを建てた――の場合、アメンティという言葉が用いられていた。魂はふたたび下界に降りて新しい体に入るときまで、ここでずっと幸せに暮らすのである。日本の沖縄では、肉体を離れた魂はこの世にもどる前にグショウ(後生)で暮らすという。オーストラリアの原住民は、つぎの転生までのあいだアンジェアという地上のすみかに住まうと信じ、子供が生まれるとその子がどこからきたのか確かめるための儀式をして祝った。のちには子供は木や岩や水たまりなどから得られたとされ、ホメロスの『オデュッセイア』に名残をとどめる伝説には、人間が「オークの木や岩から生まれた」話が語られている。古代ヘブライ人は来世のための教えをうける場所、パーディシュに滞在すると想像した。カバラの根本経典である『ゾーハル』(光輝の書)によれば、このパーディシュから送りだされるときには「流刑の身は悲嘆にくれ、真の幸福のない場所へとむかう」というのである。
 古代人は、現代人がほんの最近知りはじめたばかりのこと、つまり人生と人生のあいだにある中間世こそが私たちが本来帰っていく故郷であり、そこから私たちは肉体にやどる困難な旅にあえて出てきたのだ、と知っていた。マンリー・P・ホールは『死から再生へ』のなかで、肉体をまとって生まれてくるときの経験を、潜水夫が重たい潜水服を着て、いま味わっている気持ちのいい光やさわやかな空気をあとに、これから命綱をたよりに海底へと降りていくのにたとえている。

「重たい潜水服は肉体で、海とはいのちの海である。生まれるとき人は潜水服を身につけるが、その霊はつねに命綱で上方の光へとつながっている。人間は隠された叡知という財宝をみつけるために悲しみと滅びの海の深みへと降りていく。なぜならば経験と理解はひじょうに高価な真珠であり、それを手にいれるため、人はすべてのことに耐えねばならないからである。宝が発見されるか仕事を終える時が来れば、彼はふたたび船に引き上げられ、重い装備をはずし、新鮮な空気を吸ってまた自由を満喫する。賢人たちは、我々が“生”と呼ぶこのできごとが海底へのほんの一度の往復にすぎず、われわれがすでに何度も下降したことがあり、また財宝を発見するまでこれから何度も潜らねばならないことを知っている。」
 
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