輪廻転生
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットソン/J・フィッシャー・著
片桐すみ子・訳 人文書院
 
第2章 私たちが還っていく故郷
A

 多くの未開部族や古代エジプトのような滅亡した文明では中間世の存在を認めており、死者に来世のための支度を十分ととのえてやっていた。肉体を去った魂がときにはこの世に未練をもって残り、物質的な生活を忘れないでいることもあるので、これを助けてやるしるしとして、着るものや武器、調理道具などを死者といっしょに葬った。紀元前三千四百年、ペルシア湾の北方に花ひらいたシュメール人の社会では、家長の死にあたって召使たちを来世でも主人に仕えるよう、殺害するならわしだった。
 プラトンは『国家』第十巻で、戦死して十二日のちに火葬のため積まれた薪のうえで蘇生したパンピュリア人のエルのふしぎな伝説をくわしく書いている。その中でエルは、中間世で魂がどのように次の転生を選ぶ機会を与えられたかを手にとるように語っている。いったん選択が行なわれると、覚えていることをすっかり消してしまうために、魂は「忘却の河」の水を飲む。このように生まれかわってくる前にむりやり記憶を消滅させられてしまう話は、仏教から秘教的キリスト教にいたるまで宗教上の教えにはつきものだ。ヘブライのカバラを信じる人たちによると、夜の天使ラエラはさまよう魂の唇をかるくおさえて鼻をつまみ、記憶を失わせる呪文をとなえるという。こういうわけで私たちの唇には天使の指あとがついているのだそうだ。聖典や神話に書かれた話には、中間世に共通する特徴がこのほかにもみられるが、その中には時間が消え去ったような感じがするとか、ものすごくまぶしい光がやってきてうっとりとするとか、過ぎ去った人生をパノラマのようにながめるとか、魂が三人の賢人につきそわれて、裁きを受けるといった話がふくまれている。
 ローマカトリックの「煉獄」の考えは、死んでから次に転生するまでの生活についての古代ギリシア人の解釈に由来するとみられる。人智学のルドルフ・シュタイナーによると、カトリック教会の煉獄とは、魂が食欲、情欲などのすべてからひきはなされる中間世の最初の段階のことらしい。シュタイナーの知識は透視によって得られたもので、死んでから次に転生するまでのあいだの意識の段階についていろいろ語っているが、「死と再生のあいだの生は……この世の生活の続きである」と主張している。シュタイナーにとって、死は単に復活して元気をとりもどすための手段でしかなかった。「意識を維持し、これを活動状態にしておくために我々は肉体という鞘を絶えず破壊してきた」と彼は書いている。すこやかな体が眠りを要求するように、私たちのたゆみない進化にとって中間世は不可欠なものだと彼は説明しているのだ。
 1925年のシュタイナーの死以来、死後肉体を離れた意識の秘密への関心が次第に高まりつづけてきた。1960年代のヒッピー文化が象徴したものは、あさはかな現実からの逃避以上のものだった。ヒッピーたちが、幻覚剤に「酔って」みたり、東洋の神秘主義に帰依したことは、みな肉体を超越する体験――すなわち中間世の状態の真髄にほかならないもの――を一心に求めたことのあらわれなのだった。「フラワー・パワー」をスローガンにしたヒッピー精神も、いまではすっかり時代おくれになってしまったが、魂の旅とはどんなもので、どこまで行き着くことができるのかを知りたい、という思いはくすぶりつづけている。そんなわけで近年、バルトの謎にせまろうという疑似科学的な試みがあれこれ行なわれてきた。
 
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