人は何のために祈るのか? G

 
祈りを実現させる力は自分の中にある

 主としてたとえ話で構成されていて、仏教の中でもひときわユニークな内容となっている「法華経」のなかに、「信解品(しんげほん)」という1章があり「長者窮子(ぐうじ)の喩」が載っています。
 内容を要約しますと、以下の通りです。

 家出をした一人の若者が放浪の旅を続け、乞食になっていたところ、今は大金持ちとなっている父親がそれを見つけ、自分の財産を譲ろうと考えます。しかし、若者はその大金持ちが自分の父親であることに気づかず、恐れをなして貧民窟へ逃げ込んで暮らします。
 父親は、恐怖心を与えないようにと汚れた服装に着替えて若者に近づき、「どうか私を父親がわりにするがよい。私は年寄りだし、おまえは若い。おまえには悪意も、不正も、不誠実も、傲慢も見られない。私はおまえが気に入った。おまえは私の実子と同じだ」と励まします。
 やがて、大金持ちは自分の臨終の時にあたり、この若者を枕元によび、土地の有力者たちを集めて、「この子は私の実の子です。私の財産はすべてこの子に与えます」と宣言します。
 若者は「私はもともとそんな気持ちはなかったのに、いまこの宝が自然に私のものとなった」と気づくのです。
  

 ここでこの話を引用しましたのは、新しい時代の到来を目の前にして、人類はこの「信解品」に出てくる若者の位置に立っていると思うからです。つまり、「神さま」の財産(この世界で超能力と言われているもの)をそっくり引き継げるところに来ているということです。
 長い間、私たちはこの若者のように、自分が「神の子」であるという自覚が持てず、その力を過小評価してきました。そのため、私たちの外にある「みえない世界」の中に「力」が秘められているという認識から、その「見えない世界」に向かって「祈り」という形で願い事をしてきたのです。
 しかしながら、「見えない世界」はあくまでも「見えない世界」ですから、それは「幸福の自動販売機」の内部のように、まさにブラックボックスでしかなかったのです。私たちが発信した「祈り」というコインが、その機械の中でどのような働きをして、「幸福」というすてきな飲み物を出してくれるのかについては理解できないままでした。
 時代が急速に進む中で、いま、その自動販売機の内部構造が私たちにも少しずつ理解できるようになってきました。それは一言でいえば、「私たち自身の中に最初から備わっていた心の力」だったのです。
 私たちはメーテルリンクの小説のように、「青い鳥」を探すために旅に出ていたのですが、その「青い鳥」は、実は私たちの心の奥深くに最初から住んでいたというわけです。私たちの願いを実現してくれる力は、実は私たち自身の中に備わっていた――「神さま」が現人類に望んでいるのはそのことに対する気づきであると思っています。
 
BACK ←   [TOP]   → NEXT