人は何のために祈るのか? J

 「法華経」が教える新しい時代の祈り方


 ここで整理をしておきましょう。

(1) 「祈り」は、自分または自分が大切に思う存在の「幸せの実現」を願って、言葉、思念、行動などによって「見えない世界」に働きかける行為である。

(2) 「見えない世界」は私たちの外にあると思われていて、その内部構造はこれまでブラックボックスとなってきたため、「祈り」がどのような形で幸せを実現するのかは解明できなかった。

(3) 「自我」を拡大して、「自分が大切に思う存在」をより遠くまで広げていくことが、「神さま」の望む人類進化の方向である。(自分のために祈るのでなく、他者のため、世界のために祈る。なぜならこの世界はもともとすべて自分とつながっているから‥‥)

(4) 最終的に、「祈り」の内容を実現する力が、実は一人ひとりの人間に備わっていることを認識させることが「神さま」の意図するところである。


 ――力は私たち自身の中にあるのです。そのことに、いま多くの人が気づき始めました。私たちの魂の準備が整ったとき、その力を封じている封印が解かれるのです。

 さて、では私たちの魂の準備とはどういうことをいうのでしょうか――。「信解品」の中では「悪意や不正がなく、誠実であること。また傲慢でないこと」などがあげられていました。誠実であることの大切さについては説明の必要はないと思います。
 私はその次の「傲慢」という言葉に注目しています。これは別の言葉で言えば「驕り」ということでもあり、人の心の進化を止めてしまう心の態度です。
 同じ「法華経」の中の第20章に「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)」という話があります。この話の主人公となっているお坊さんは、「傲慢」の対極にいると言ってもよい行動をとるのです。どんな人に対してもみなことごとく礼拝し、ほめたたえ、次のようなこと言っていたため、「常不軽菩薩」という名前をつけられたというのです。

 「わたしは深くあなたがたを敬う。あえて軽んじたり、わたくしが高慢になったりしない。それはなぜかといえば、あなたがたはみなボサツの道を行じて、必ずや仏となることができるはずだからである」

 このお坊さんは経典を読誦するのでなく、ただ他の人の礼拝ばかりを行なっていました。何年もの間、相手の人に罵られても、怒りやにくしみの心を起こさずに、つねにこの言葉を発していました。「あなたはまさにかならず仏と成るでしょう」と。

 この行を通じて、この「常不軽菩薩」は悟りを開き、立派な仏になったという話です。
 人はみな自らの中に「仏性」を秘めているので、その人を軽んじてはいけないことを教えています。それは私たち自身にも言えることです。私たちの中に「仏性」、すなわち「神さま」と同じ性質と能力が備わっているのです。それを礼拝することによって、その「仏性」が顕れてくるのです。
 「私たちの内なる神に祈る」――これは大事なキーワードにしておきたいと思います。
 
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