生命思考 
ニューサイエンスと東洋思想の融合 
石川光男・著 TBSブリタニカ 1986年刊
 

 人間は自然を支配する王様ではない

 カルチャー・センターが“軽茶センター”と茶化されたのは数年前だが、相変わらずの盛況である。なぜ多くの人びとがつくられた「文化」に吸収されていくのだろうか。
 現代人は、「人間性の回復」を一つの目標にしている。それほどいまの社会では人間性が失われているということなのだろう。カルチャー・センターへ人びとが集まるのは直接的には趣味や技術の習得という目的のためであるとしても、究極的には、人間的な生きがいを求めているからであろう。
 多くの人びとが荒涼とした風景を心に抱いて生きなければならなくなったのは、物質中心の世界観がもたらしたさまざまな繁栄の結果であるように思われる。
 九州大の池見教授は、人間は「自然の子」であることに気づくべきだ、と指摘している。人間は決して自然を支配する王様ではなく、自然によって生かされていると考えるべきである。生命体の特徴をつぶさに見ていけば、自然に「生かされている」という感覚を持つはずだ。
 私は「生命思考」という考えを再三、語ってきた。それは「もの」と「心」を分離するのではなく、一体として考えるという意味で科学的でもある。同時に「生かされている」ことに対する感謝の意味もあるから宗教的ともいえる。
 生命体はホロンとしての自律性(ゆらぎ)と同時に、社会、文化、自然というシステム全体に奉仕するという機能をバランスよく調和させる存在である。
 有機システムとして生命体を見ると、それぞれの部分が、自分の個性を生かしつつ、自分に与えられた役割をこなすことで、全体のバランスが実にうまくとれていることに気づく。自己中心主義でもなく、全体主義でもない。生命は共生主義、協調主義に支えられている。
 生物の世界は、弱肉強食のように受け取られやすい。動物たちの世界を描いたテレビや映画の記録だけを見ていると、そう思うのも無理ないかもしれない。しかし実際は、有機システム全体として見れば、生物の世界は見事なまでに調和を保っている。決して「競争原理」だけに支配されている世界ではない。もちろん、絶え間なく生と死は繰り返されているが、それも生命のシステムを維持するためなのだ。
 私たち人間の世界は何世紀にもわたって「強者の論理」をすべてに優先させてきた。いま、心身障害者、老人、教育の場での「おちこぼれ」などの問題が大きな社会的テーマとなっているのも「強者の論理」に支配され、競争原理によって動いてきた社会に対する一つの反動であろう。
 強い者、優れた者を基準にすると「おちこぼれ」は必然的に生み出される。あるいは年寄りが「じゃまもの」として切り捨てられていく。教育学者のブルームは、教育についてこう語っている。
 「〈できる子〉とくできない子〉がいるのではない。学習の速度が〈速い子〉と〈遅い子〉がいるに過ぎない」
 社会の基準を弱者にも合わせる、という柔軟性を持つことが実は「生命思考」にもっともかなっているのである。たとえば最近の街づくりはいろいろなところで車イスで歩けるような配慮が取り入れられるようになってきた。これは強者と弱者が共生していくことに気づき始めた兆しでもある。
 とはいえまだまだ競争から共生へ、というパラダイム・シフトまでにはなっていない。近代から現代にかけての科学は、物理学を中心に目を見張るような進歩、発展を遂げてきた。そこには多くの長所もある。しかし心を置き去りにしたがために生命体の本来持っている素晴しさに気づくことがなかった。
『ホロン革命』のアーサー・ケストラーはこんな言葉を遺して自らの命を絶った。
「原子核というパンドラの箱を開けて以来、人類は借りものの時間を生きている。だがほんのひと握りの人間しか、この事実に気づいていない」
 私たちはケストラーのこの絶望的ともいえる言葉に対して何をしたらいいのか。それに対する私の答えは、生命思考という考え方を個人と社会のさまざまの面で取り入れていくということである。それが「パンドラの箱」に蓋をし、希望を残すことになると信じたい。
 
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