愚痴や不満癖を改める方法
2012年1月掲載分を再編集しました 
 

 「2012年問題」が話題になっていたころ、当サイトの読者の方(Bさんとしておきます)から次のようなメールをいただきました。そのご質問にお答えする形で綴った内容をご覧ください。(メールは用件のみ。前後のご挨拶文は割愛しています)

■Bさんからのご質問
  もし2012年に転換期があるとするなら、ちょっと新世界を生きる合格者になるには点数不足かな?と思う面もありますし、自分磨きをもっと意識しないとならないですが‥ただこれだけアメリカに毒された歪みきった常識内で愚痴や不満を言わずに生きる方法ってあるのでしょうか‥それをご存知なら是非コツをお教えください。

  結論から先に申し上げておきますと、実行していただかないといけない条件が2つあります。

(1)愚痴や不満は魂を汚す善くない心の癖であることを認める。

(2)「善くない心の癖はなくす!」と心に決める。


 以上の2点です。
 (1)の「愚痴や不満は好ましくない波長なので魂を汚す」ということについてはご理解いただいていると考えて説明してまいります。

 「愚痴や不満を言う」ことを「タバコ(喫煙癖)をやめる」ことに置き換えて考えてみてください。タバコは自分や周辺の人の健康を害する可能性がありますし、その匂いを嫌悪する人も多いため、最近では喫煙者が減っています。それでも、軽い気持ちで吸い始めてなかなかやめる決心ができない人や、決心しても途中で挫折する人が多いのはなぜでしょうか?私も40年前に禁煙するまでは愛煙家の1人でしたので、タバコを飲む人の気持ちは理解できます。
 「一息入れる」という言葉もある通り、タバコを飲むことによって緊張感が和らぎ、心の疲れがとれるような気がするからです。ある意味で神経を麻痺させる効果があるのかも知れません。要するに、飲むことによって心地よくなるのです。その「心地よさ」が習慣となり、味を忘れることができないため、やめる決断ができなくなっていくのだろうと思います。
 もしタバコ(喫煙癖)をやめたいと思うのであれば、その「心地よさ」を断念して「タバコ(喫煙癖)を絶対やめてやる!」と決心する必要があるのは言うまでもありません。上記の条件(2)です。

 ところが、何事でもある習慣を断とうと決断しますと、すぐに「1本の誘惑」が始まるのです。「1本の誘惑」については拙著『2012年の黙示録』(たま出版)で詳しく説明しておりますので、のちほど引用しますが、要するに「決断を思いとどまらせようとする心の中からのささやき」ということです。
 「ささやき」と言っても言葉が聞こえるわけではなく、ふとそう思うという形で、心の中に住まうもう1人の自分(弱い自分)が誘いかけてくるのです。「どうしてやめるの?」「体に悪いと決まってるわけじゃないんだし」「タバコのおかげで精神的なストレスが発散できるんだからいいんじゃない?」といった感じでしょうか。人によってそのささやきの内容はさまざまでしょうが、いずれにしてもせっかくの決心を翻意させるような気持ちが湧きあがってくるのです。この「1本の誘惑」に負ける癖をつけますと、身魂磨きは失敗してしまうことになります。

 愚痴や不満を言う行為も、「心地よくなれる」という点でタバコを飲む行為とよく似ています。自分にその意識があるかどうかはわかりませんが、他人や世の中のことを悪くいうことによって心地よくなれるのです。また自分と同じ境遇にいる人と不満を言い合うことで、強い立場の人をこき下ろすことができますので、心が慰められるのです。「同病相憐れむ」といった言葉がある通りです。
 しかしながら、何事も繰り返すことで習慣化します。心の使い方も喫煙癖などと全く同じように、繰り返すことでそれが癖となり、身についてしまいます。冷静にあたりを見回しますと、他人の悪口を言い合ったり、自分の境遇を嘆いたり、世の中に対して憤りの気持ちを口にする人はいくらでも見かけることができます。
 そして、よくよく観察すると、その人たちはどんな境遇におかれても、必ず不満や愚痴の対象を見つけ出していくことがわかります。職場の上司や部下に不満を持つ人は、職場が変わってもまた新しい不満の対象を見つけ出し、やはりぶつぶつと批判や愚痴をつぶやき、最終的に自分を正当化することになっています。

 終末にはカルマの清算が求められる

 さて、このように愚痴や不満をいう心の習慣は、これから迎える終末の大峠までに、ぜひとも清算しておかなければならない善くない心の癖なのです。それができていない人は、最終的には強制的に清算を迫られることになると思われます。処理せずに放置していた荷物を一度にどっさりと背負わされるということです。それを私は拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の中で「極限的状況」と表現しました。
 「極限的状況」とは、家や財産、地位などを失うだけでなく、愛する家族や恋人とも離ればなれになり、孤独感と恐怖、飢餓、寒さの中で絶望感に苛まれる姿をイメージしてみてください。2011年の東日本大震災で津波に襲われた人たちは、大半の方が家族の安全を気遣ったために逃げ遅れたと言われています。終末の大峠においては、さらに大きなスケールでそのような状況を経験することになるかも知れないのです。
 その時、準備ができていない人はただただ恐怖におののき、慌てふためくことになるのではないかと思われます。善くないカルマの清算ができていないため、それが一度に出てくることになるからです。善くないカルマという荷物はできるだけ早く処理して少なくしておくに超したことはないのです。
 日々の生活の中で「荷物」を減らすには、身・口・意を矯正し、コントロールする必要があります。最終的には「意(認識できる心=想念)」をコントロールすることが必要なのですが、自分の心がどのように動いているかは把握するのが難しいので、まずははっきり認識できる言葉(口)や行動・行為(身)のコントロールを実行することです。

 善い決断を妨げようとする心の働き

 身・口・意のコントロールの中でも特に難しいのが言葉の制御と言ってもよいでしょう。他人に向けて発せられる言葉はもちろん、自分しか聞いていないようなつぶやきでも、言葉として発信されたものは自分の魂に影響を及ぼします。そのつぶやきが愚痴や不満である場合は善くないカルマを生産していることになるのです。終末の大峠までに清算してしまわなくてはいけない荷物を増やしていることになります。しかも、その荷物は「天の倉(神霊界)」に貯金され、どんどん利息がついていくのです。そのことを新約聖書ではイエスの言葉として次のように述べられています。

 「天国は、一粒のからし種のようなものです。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になります」。またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものです。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんできます」。(マタイによる福音書)

 ここに出てくる「天国」とは、終末の大峠のあとに訪れる「神の国」のことを指していると思われますが、要するに物質界に対応する霊的世界と解釈すればよいでしょう。日月神示でも、「ミロクの世(神の国)は半霊半物質の世界」とありますから、霊界と同じような特徴を持つものと思われます。
 ということは、各種霊界通信で伝えられているように、自分の思いがすぐに形になるということです。たとえば、ある人のことを思うと、その気持ちがすぐに相手に伝わるといわれています。もし人を攻撃する気持ちを持てば、直接相手を傷つけることになるわけです。
 ですから、心のコントロールができない人は神の国とは波長が合わないのです。人を厳しく批判したり、不満に思ったりする心の癖を持つ人が「神の国」の住人になれない理由はこういうことなのです。
 終末において、人が「光の子」と「獣(的な人)」に分けられるということの意味は、これから物質界が霊界的性格を強めていく過程で、人の持つ波長が増幅されて、二極分化していくことを述べています。この物質世界が三次元であるのに対し、神の国は霊界などの四次元を通り越して五次元であるという霊界通信もあります。霊界以上に繊細な波長の世界ということになります。そこでは、先ほどのイエスの言葉にもあったように、心に思ったことが何十倍、何百倍と拡大されて伝わるということです。
 従って、愚痴や不満、他人の悪口などの粗い言葉の波長は、それが増幅されると相手に与えるダメージは大変強力なものになってしまいます。この物質界では、密かに悪い言葉を使っても誰にも気づかれないので、愚痴や不満は罪がないように思われがちですが、実際は人の口から出た言葉はすべてこの宇宙のどこかに波動としてしっかり記録されているのです。
 そして、その波動は大きく育って力を強め、終末の大峠までにブーメランのように発信した本人のところに戻ってきます。これが「めぐり」(日月神示)や「かやし」(天理教のおふでさき)と言われ、一般的に「カルマ」と呼ばれているものです。
 では、返ってきた「めぐり」や「かやし」は発信者にどのような影響を与えるのでしょうか。たとえば他人の悪口を言った場合、そのカルマの結果には3つの形があると言われています。

 ひとつは、「自分が他の人から同じような悪口を言われる」という形で相殺されることになります。「目には目を」と言うべき内容で、これが一番軽いカルマの返り方です。

 2つ目は、「ますます他人の悪口を言いたくなるような状況に置かれる」ということです。不満な気持ちを口に出していると、その気持ちの持ち方が習慣となり増幅されるためです。

 最後の3つ目は、「他人の悪口を言うことによって、その相手の持っている善くないカルマをもらってくる」という形で返ってくるというものです。天理教の教祖に下ろされた霊界通信(おふでさき)に、「他人が自分の悪口を言う場合はそのことに感謝せよ」という内容の言葉があるそうです。

 以上の説明から、終末における身・口・意のコントロールの必要性はご理解いただけたでしょうか。他人に聞かれなくても愚痴や不満を口にすることがいかに自分の魂を汚す行為であるかがおわかりになったことと思います。
 この物質世界が終わりを迎え、霊的世界に移行することになれば、何気なく発している言葉の一つひとつにもすぐに結果が返ってくることになるわけですから、肉体を持って物質世界に生きている今のうちに、その善くない習慣を改めておくことが必要なのです。
 
 最後に、「1本の誘惑」について述べた拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の内容をご紹介しておきます。

 「光の子」になるための条件とは

 いま既に始まっていると思われる終末現象のなかで、これから私たち人類は「光の子」と「獣」に分けられると予言されています。我欲に満ち、物質世界の享楽を手放すことのできない人は、獣的人間となって、次元アップした新しい地球には住むことができないといわれています。
 そのことをよしとする人は、いまさら新しい気づきを得るために努力をする必要はありません。もし、そのような人たちがいるとすれば、これからの終末現象の中では、身の回りに権力やお金、財産、地位を引き寄せるだけでは不十分で、天変地異や戦争などに備えて強固なシェルターなどをこしらえ、身を守る努力をする必要があるでしょう。
 しかし、今回の終末のカタストロフィーでは、物質で固めた強固な城がまたたく間に崩壊していく姿を目にすることになります。備える内容が違っているのです。その時に気づき、反省しても、もう遅いかもしれません。それまでに気づきのチャンスはくり返し与えられているはずですから‥‥。
 というわけで、ほとんどの人が「光の子」として選ばれることを願っていると思われますが、そのときに大切なことは「これまでどんな生き方をしてきたか」より、「今どんな生き方をしているか」ということです。私たちのこれまでの生き方が慣性となって、現在の生き方に大きく影響しているのは確かですが、ここで勇気を持って価値観の転換をはかるならば、「過去」は「現在」を束縛することはできないのです。なぜなら、私たちには「今」という時間しかないからです。「今」を変える決意されあれば、「過去」は私たちの生き方に干渉することはないのです。
 ただし、過去に犯してきた過ちに気づき、その過ちを軌道修正する決断は必要です。無反省であってはいけないわけです。
  たとえば、習慣的な喫煙癖をやめようと思う場合、これまで喫煙してきた期間の長さはまったく関係ありません。20年も飲み続けたからやめにくくて、5年しか飲んでないからすぐやめられる、ということはないのです。今、喫煙癖とさよならすることを決断すれば済むことなのです。ただし、これまでなぜタバコをやめられなかったのかということについての反省がなければ、一度やめたとしても、喫煙癖はすぐに復活します。
 私はこれを「1本の誘惑」と呼んでいます。
 タバコをやめることにチャレンジした人たちが、1カ月あるいは1年後に、再びタバコを吸い始めるようになる一種のパターンがあるのです。それは、「1本ぐらいすっても、もう大丈夫だろう」という気持ちで心を許してしまうことです。これが「1本の誘惑」です。
 確かに、1カ月もタバコをやめた人が、途中で1本をすったとしても、翌日からすぐに喫煙癖が復活するわけではありません。それから1カ月くらいは無理なく禁煙が続けられるのです。そうやって安心させておいて、またしばらく経つと今度は「2本目の誘惑」がやってきます。このときは、前回成功した経験もありますので「1本くらいすっても‥‥」という安心感はさらに強くなっています。つまり、誘惑に対するガードが甘くなっているということです。こうやって、2本が3本に、そして、いつの日か元に戻ってしまうというパターンが巧妙に準備されているのです。こういう形で、私たちが「誘惑に強いか、弱いか」ということについての判定がなされてしまいます。
  「タバコ」を「ケーキなどの甘い食べもの」「お酒」「異性とのセックス」「ショッピング癖」など、その他のものに置き換えてみてください。あなたにも何か当てはまるものがありませんか?
  そのような物質次元のさまざまな誘惑にうち克つ心を持てるかどうかが、新しい時代行きの切符を手にできるかどうかを判断する基準になるのです。
――『2012年の黙示録』(なわ・ふみひと著/たま出版)


 「1本の誘惑」がどのような特徴を持っているかおわかりいただけたでしょうか。人の心の中にはもう一人の自分がいて、楽な道、安易な道を選ばせようとささやきかけるということを肝に銘じていただきたいと思います。身魂磨きはそのささやきに負けない自分を作ることといってもよいでしょう。
 この内容をさらに深めた以下の「つぶや記」もぜひ参考にしてください。→ 大掃除を始めてくだされ
 
 
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