病気を意識すると病気になる
2008年4月掲載分を再編集しました。 
 

 今回ご紹介するのは篠原佳年氏の名著『快癒力』(サンマーク出版)です。プロフィールによりますと、著者はこの本が出版された時点では「医療法人しのはら医院院長」として、「膠原病、主に慢性関節リウマチを中心に治療を行なっている。全国からの難病に関する相談が多く、講演も多数」となっています。
 今日では、西洋医学の問題点も指摘されるようになってきましたが、実際の医療現場は機械づけ、薬づけとなっているのが実情です。また、ほとんどの人が「病気になったら医師に診て貰って、薬をのまなければ治らない」と思い込んでいるのではないでしょうか。私自身、歯医者以外の病院にはここ40年来お世話になったことはなく、何よりも化学薬品はまったく口にしません。
 そういう意味からも、この篠原氏の考え方には共感させられます。本日はまず前半部分のエキスとなる内容をご紹介します。

医者が病気になりやすいのはなぜか

 医者が病気になりやすく、平均寿命も短いことをご存じですか。医者は病気治しのプロであり、病気の原因も治療法も熟知しています。その専門家が病気にかかりやすいのは、おかしいと思われるかもしれません。だが現実に、医師は自分の健康や長寿のためには最悪の環境にあるといっていいのです。
 たとえばガンの専門医は、毎日毎日ガン患者と対面しています。ガンへの恐怖のイメージが医師の心の奥底に深く入り込んでもおかしくありません。それでガンになってしまうことが多いのです。波動の理論でいうと、ガンの波動とシンクロ=同調してしまうのかもしれません。
 ある年齢になって「そろそろ成人病に気をつけなければ‥‥」と思うのもよしあしです。健康のために運動をして、食事に気をつけるのはよいことですが、「成人病、成人病」と意識しすぎることは、かえって心のなかに病気の種を植えつけるようなものだからです。
 私がこれまで多くの患者さんに接して思うことは、病気になりにくい人は「病気を意識していない人」なのです。病気のことなんか、まるで眼中にない人は、めったなことでは病気になりません。
 ストレスから胃潰瘍になることはよく知られていますが、胃潰瘍にかぎらずあらゆる病気の原因は、自分自身がつくり出している側面があります。病気になりやすい人と、そうでない人との差は、持って生まれた体質とか運もありますが、最大の原因はその人の考え方にあるといっても過言ではありません。

重かった背中の荷物をどう軽くしたか

 世の中には重い病気の家族を抱えて困っている人もいます。また自分が病気になって家族に迷惑をかけていると、心苦しく思っている人もいることでしょう。どちらも病気治癒によい心理状態ではありません。そこで参考までに私自身のことを述べてみたいと思います。
 私の子供は先天的な病気で言葉をしゃべることができません。そのような子を授かったことで、妻は悩み続けて心の病気になりました。そのうえ、母は私が開業した頃、すでに肝臓ガンに侵されていました。父は医者でしたが、脳出血による半身不随で、自分でトイレにも行けない体でした。
 ふつうはこれだけ病人を抱えると、そのストレスは相当なもので、私自身も病気になって不思議ではないと思います。ところが何の因果か、私は健康そのものでピンピンしています。なぜ私が健康でいられたのか。一時期は私も悩み苦しみましたが、あるとき子供時代に読んだ一冊の本を思い出したのです。その本にはこう書かれていました。
 「
神様はその人の背中に背負えるだけの荷物を背負わせてくださる。ただ、その人の背中の大きさに見合ったぶんだけしか背負わせてくださらない
 それを読んだとき、子供の私は神様にこうお願いしたのです。
 「神様、僕は困った人や病気の人の荷物を背負ってあげたいのです。たくさんの荷物を背負える大きな背中をください」
 そのことをフッと思い出した瞬間、私は納得したのです。わざわざ病気の素質のある嫁さんを探して、病気の子供を選んで、親も病気になって、仕事も難病の患者さんばかりを相手にして‥‥そうか! と思ったら、それまでずっしりと重かった背中が急に軽くなりました。
 よくよく見てみると、子供も妻も私ほど悩んではいないのです。子供は私に会うとニコッと笑います。その子を見て妻も嬉しそうにしています。
 父はよくつまづきますが、いっこうに悩んでいなかった。母が死んで、面倒を見る人がいなくなって施設に預かってもらったのですが、母親が死んでからは生きることに興味を失いました。それでも父としての威厳は失わず、人に「どうこうしてくれ」とは一言も言わず、一人で死んでいきました。
 その1年ほど前に、母は病院で私と弟にみとられて亡くなりました。直前までガンの告知をしなかったこともありますが、母が自分の病気で取り乱した姿を見せたことはありませんでした。
 みんな自分の生を一生懸命に生き、死ぬ時期がきた者は死んでいきました。人間は生まれた瞬間から死を約束されている存在なのだから自分らしく生きればいい、自分が思った通りに精いっぱいわくわくすることで生きればいいのではないか――そう思いました。
 そうしたら不思議なことが起こりました。自分のことで悩んでいたときはドリンク剤を飲まないと元気にならないし、それでも疲労から気の萎えることがしばしばだったのに、どこからかエネルギーが生まれてきて、私は疲れを知らず、何をやっても楽しいという人間に生まれ変わっていたのです。

目には見えない世界も厳然とある

 私たちは病気について考えるとき、どうしても西洋医学的な考え方をします。たとえば病気になる原因を考えるとき、ひとつは細菌を念頭におく。コレラはコレラ菌、赤痢は赤痢菌、エイズはエイズウイルスによって引き起こされると思っています。
 肥満とか高血圧が成人病を招くというとき、脂肪が体内でどのようになり、血管がどうなるから高血圧になって‥‥と、すべて具体的な説明をされて納得する。そういう思考に慣らされているために「わけがわからないが治る」というような言い方は信用されません。
 「気」などはさしずめわかりにくい筆頭で、信じる人間は信じるが、一般の人はいざとなると検査づけ、薬づけと知りつつ、結局は現代医療の世話になってしまうのが現実ではないでしょうか。
 だが、目に見えない世界というのが厳然と存在するという事実に、もう少し目を向けてほしいのです。その世界を知ることが、病気にならないために、あるいは病気を治すために非常に大切なことなのです。
  (中略)
 いずれにしろ量子理論を総合すると、この宇宙空間にあるあらゆる存在は同一のものから構成されている。そして物質もエネルギーも状態の違いにすぎないことがわかってきました。人間を構成しているものは宇宙を構成しているものとまったく同一であり、原子核のまわりを電子が回っているさまは、太陽のまわりを惑星が回っているのと同じ、ミクロの世界の裏返しがマクロの世界だということになります。
  (中略)
 現代医療の限界を強く感じていた私は、突破口を見いだすため、死んだ人間をも生き返らせると言われている神の化身サイババに会うためにインドにも行きました。「病気とは生命エネルギーすなわち気というものが、形を変えてつくり出した心の影」「私たちは病気を通して生や健康を学んでいる」「病気は熱きメッセージである」。こういう私なりの病気観が確立したのはそのときの経験がひとつのきっかけになっています。
 人間と宇宙が同じ法則によって構成されているなら、人はある心的状態になったときに宇宙の究極の意志である「創造主」から、そうしたことを教わるのだと思います。
 人間は自分のなかにあらかじめすべてを持っている。あるいはすべてを知っている。進化によって明らかになるのではなく、持っているもの、知っていることを、あるきっかけによって気づいていく。そしてその気づきが経験を通してさらに深まっていく。そして人生も深まっていく――。そうでなければ、「病は気から」という思想が何千年も前に生まれるはずがありません。

病気になるのも捨てたものではない

 自然治癒力という言葉を聞いたことがあると思います。体には、医者や薬の世話にならなくても、きちんと癒すシステムが備わっているのです。病気が治るのが自然治癒力だとすると、病気になるのは自然治癒力が弱まったときということになります。しかし、
病気が治るだけが自然治癒力ではない。病気になるのも、実は自然治癒力なのです。
 たとえば何か悪いものを食べたとします。食あたりで下痢をする、嘔吐をする。これは見かけは病気です。しかし、私は下痢も嘔吐も自然治癒力だと思います。なぜなら、下痢や嘔吐は、体に侵入した悪い食中毒菌や異物を早く体外に出そうとする作用です。体をもとの健康体に戻そうとする意味においては、このような症状も自然治癒力と考えられるのです。
 こういう考え方をすると、体が異変を起こしたとき、それをあわててもとに戻そうとするのは間違いであることがわかります。病気をすべて悪者にするのがおかしいのです。病気はどこかバランスがよくないことを教えてくれている。そしてバランスをとろうとしているのです。病気になったら、自分のどこがいけないのかを考えてみるという姿勢が必要です。
 私のところへはリウマチ患者さんが大勢来られますが、私が前から気がついている不思議な事実があります。それは、リウマチにかかった人でガンを患う人はほとんどいないといってよいことです。
 ある病気になることは別の病気を防ぐことであると考えれば、自分の病気への愛情も出てくるというものです。
 「
病気を不運だと考えたり、不当だと考えることは治癒の妨げになる。病気を成長のための贈り物だと見なせるようになったとき、治癒系のブロックがはずれ、治癒が始まるのだ」(アンドルー・ワイル著『癒す心、治る力』角川書店より)
 実際に多くの患者さんに接していると、難病の人で地位、名誉、財産などにこだわっている人は一人もいません。この人たちがとらわれていることは、ただ病気だけなのです。
 病気が治ってしまえばどうなるのかはわかりませんが、少なくとも病気にならなければ「考えない」「わからない」ことが絶対にある。そういうことを考えるチャンスを与えるために病気が与えられるのかもしれないという見方もできます。
 
病気は自己を成長させるよいチャンスといえます。人間は三日生死の境をさまようと聖者になれる、といいます。病気になったら「自分を考えるチャンスが訪れた」と前向きにとらえることです。
―― 『快癒力』(篠原佳年・著/サンマーク出版/1996年刊)


 私の病気観はこの篠原氏の考えと一致するところ大です。少し違うとすれば、篠原氏が病気の原因と見ている「気」のことを私は「心の癖」と表現し、その心の癖がカルマとなって「気」のパターンを決めていると考えている点です。言うなれば「病気はカルマの産物」という考え方です。
 この考えに立ちますと、生まれながらにして難病に侵されてる人がいる理由も説明することができます。つまり、「病気を全く意識していなくても病気になる人がいるのはなぜか」という疑問に答えることができるのです。カルマは人がその人生において作り上げたものだけとは限りません。過去世(前世、前々世など)において自ら形成した心の癖が作用して、あるいは親を初め祖先が作ったカルマが血のつながりを通じて引き継がれて、生まれた段階から形として表面化する場合も多いと思われるからです。
 そのあたりの内容は、私の発熱体験を綴った当サイトの「平成倒病記」をぜひ参考にしていただきたいと思います。
 また、拙著
『2012年の黙示録』(たま出版)の中でも、病気に対する考え方を述べています。以下にその部分を引用しておきますので、篠原氏の病気観と対照しながらご覧ください。「健康に執着するのは病気願望と同じこと」という部分は「病気を意識すると病気になる」という篠原氏の考え方とまったく同じ内容と言ってよいでしょう。

病気の原因は潜在意識にため込まれた心の癖

 
健康ということを例に取って考えてみましょう。いまの日本人は病院や薬と大変仲良しになっています。そのことを批判するわけではありませんが、それは西洋医学の間違った考え方に毒された結果なのです。西洋医学の一番の間違いは、人体の病気を部品の欠陥と捉えている点です。胃が悪ければ、胃の調子を整える薬を与えるか、極端な場合は胃を切開して悪い部分を除去すれば良くなるという思想に基づいています。
 部品の故障を修復する力のある薬は、その副作用として他の部品または全体に対しては悪い働きをする場合がほとんどです。今日では副作用が全くない薬はないとも言われています。
 西洋医学が問題なのは、病気の原因を単に悪い物質の作用、または部品の機能低下によるものと考えている点です。確かに、現象としてはウイルスなどの病原菌によって発症するケースもたくさんあるでしょう。しかし、その病原菌は「原因」ではなく「媒介」でしかないのです。病気の原因は心の中、つまり潜在意識に蓄積された“よくない心の習慣”にあり、その「因」がウイルスという「縁(きっかけ)」によって「果」としての症状を現すのです。
 ですから、「縁」を退治しても、「因」が残っているかぎり、再び体の他の部分に「果」としての症状を現してくることになります。癌などの難病が、手術によって悪い細胞を除去しても再発するケースが多いのはそのためです。潜在意識の中にあるよくない波動が、同じ波長の病気を引き寄せ、症状を体に現わしているということを理解しないと、病気の予防も、本当の治療もできません。
 これだけ医学が発達したと言われながら、さまざまな難病にかかる人の数は増える一方であること、そして、医療費として病院や薬品メーカーに支払われる金額(保険も含めて)が天文学的にふくらみ続けていることを疑問に思いませんか。
 薬や手術に依存するということは、外の力を頼りにするということです。本当に病気を治す力は私たちの体の中に備わっているのに、それが活用されないのです。私たちの体の中に常駐している「自然治癒力」という名の“病気を退治してしまう部隊”が、いざ自分たちの出番だと思って出動すると、いつのまにか“薬品投下班”という外人部隊が出てきて、病気を症状もろとも追い払ってしまうのです。
 出番が少なく、実戦経験を積むことができなかった「自然治癒力」部隊は、そのうち戦闘能力を低下させてしまうことになります。そして、病原菌に侵略されるたびに、ますます外人部隊に頼らざるを得なくなっているというのが、現代の平均的な日本人の姿ではないでしょうか。

健康に執着するのは病気願望と同じこと

 
「健康になりたい」と願う気持ちの裏には、「いまが健康でないから」という心が隠れています。いま健康な人はけっして「健康になりたい」とは思わないからです。私たちが健康にあこがれる気持ちは、「いまが健康でない」ことを潜在意識に繰り返し記憶させているようなものです。そ の結果として、ますます健康でない状態を作り出すのです。
 この心の習慣から脱却する方法は、病気そのものに感謝するか、「すでに健康になりました。ありがとうございます」と、自分が健康になって何かやりたいことに没頭している姿を思い浮かべ、感謝の気持ちで胸をいっぱいにふくらませることです。
 健康に限らず、私たちが「欲しい」と何かを求める気持ちの裏には「不足している」という気持ちが隠されています。私たちの潜在意識はその気持ちを感じ取ってしまうのです。ですから、私たちが何かを望むときは、既にそれが与えられたと考え、感謝することです。そうやって感謝の波動を発信すると、「類は友を呼ぶ」という波動の法則によって感謝の波動を引き寄せ、必要なものが与えられるというわけです。
 健康の問題に限らず、一番大切なことは、常に満足と感謝の波動を発信することです。すでに必要なものが与えられ、満たされているという気持ちから、常に感謝の気持ちをもつことが大切です。身の回りに起こることはすべて私たちにとって必要なことであり、それがベストの形で与えられたと考えることができるようになれば、私たちが「あれをください、これをください」といちいち指図をしなくても、スーパーパワー(宇宙創造神)はすべてをお見通しで、必要な時に必要なものをちゃんと与えてくださるのです。
―― 『2012年の黙示録』(なわ・ふみひと/たま出版)
136ページ〜

 次回も
『快癒力』(篠原佳年・著/サンマーク出版)を抜粋してご紹介します。後半部分のエキスは第3章の「病気が治ってしまう3つのタイプ」です。そのサワリの部分だけご紹介しておきますと――。

 「病気を治すにはどうしたらいいか」とよく聞かれます。私のこれまでの経験で言えば、第1に「病気をあきらめた人」、第2に「病気を忘れた人」、第3に「人のために生きようとする人」は、病気が治癒しやすい生き方をしている人たちです。
 「重症だからとても治らないだろう」と思う人が、こちらが驚くような回復ぶりをみせるときがあります。そういう場合はこの3つのいずれかに該当しています。
―― 『快癒力』(篠原佳年・著/サンマーク出版/1996年刊)


 「病気をあきらめる」あるいは「病気を忘れる」とはどういうことでしょうか。そのあたりを次回はじっくり考えてみたいと思います。ご期待ください。
 
 
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