身・口・意がカルマをつくる
2006年10月掲載分を再編集しました 
 

 分け合って、借銭なしにしてくだされ

 「カルマの法則」に関しての私の考えを、いろいろな角度からより詳しくご説明させていただこうと考えています。『大本神諭』や『日月神示』には、「終末の大峠までに心の洗濯(掃除)をして身魂を磨き、私たちの善くないカルマをすべて清算しておく必要がある」と述べられているからです。
 カルマのことを『日月神示』では“めぐり”と、天理教の「おふでさき」では“かやし”と表現しています。いずれも、私たちの「言葉(口)」「思念(意)」「行ない(身)」が一種のエネルギーとなって異次元に伝わり、それが蓄積されることによって“場(シェルドレイクの言う形態形成場)”を形成し、やがてはブーメランのようにこの三次元の物質世界に還ってきて、そのエネルギーの性質にふさわしい現象を引き起こすことを象徴的に表現した言葉です。
 たとえば「他人を憎む」という思念を発信している人には、ますます他人を憎みたくなるような出来事が起こり、いつも悲観的な考えを持っている人には悲しい出来事が、怒りっぽい人には怒りたくなるような出来事が、次々に降りかかってきます。これが「めぐり」であり、「かやし」の内容です。「泣き面に蜂」や「笑う門には福来たる」という諺がそのことをうまく表現しています。
 また、サタンが降りた』(でくのぼう出版)の中で桑原啓善さんは「黒いボールを投げれば黒いボールが、白いボールを投げれば白いボールが返ってくる」と、ボールに譬えて説明していました。仏教で教えられている「因果応報の理」すなわち「自業自得」や「善因善果・悪因悪果」も全く同じ意味です。新約聖書には「人は自ら蒔いた種を刈り取らねばならない」と述べられています。
 天理教の教えの源となっている「おふでさき」では、私たちが「むね(心)」と「くち(言葉)」で表現したものを親神様が受け取って、それと同じものを「かやす(返す)」と擬人的に表現してあります。以下にその部分を引用します。「おふでさき」の出典は『おふでさき通訳』(芹澤茂・著/天理教道友社/1993年刊)です。

★ おふでさき ★
 いまゝでハ神があらハれでたるとて
 まだしんぢつをしりたものなし
 このさきハどのよな事もしんぢつを
 をしへてをいた事であるなら
 それからハ神のはたらきなにもかも
 ぢうよぢざいをしてみせるでな
 しんぢつの神のはたらきしかけたら
 せかい一れつ心すみきる
 はたらきもいなかる事とをもうかな
 心うけとりしだい
かやし
 この
かやしなにの事やとをもうかな
 みちのりせんりへだてありても
 この事ハなにをゆうてもをもふても
 うけとりしだいすぐに
かやし
 この
かやしなんの事やとをもうなよ
 せんあくともにみな
かやすてな
 よき事をゆうてもあしきをもふても
 そのまゝすくに
かやす事なり
 この事をみへきたならば一れつわ
 どんなものでもみなすみわたる


【なわ・ふみひとの解釈】
 今までは神が現れ出たといっても、まだ本当のことを知る者はいない。これからはどのようなことでも、教えておいた本当の神の働きを自由自在にしてみせる。本当の神の働きを見せたら、世界中の人民の心はみな澄み切るだろう。
 神の働きはどういうものかと考えるであろうが、神は人間の心を受け取り次第に「かやし(お返し)」をするのである。この「かやし」は普通に考えられるようなものではなく、道のりが千里も隔たっていても返すのだ。何を言っても思っても、受け取り次第直ぐに返す。この「かやし」はどんなものかと思うな。善も悪もともに皆返すのである。善い事を言っても思っても、悪い事を言っても思っても、そのまま直ぐに返すのである。この法則が人民にわかるようになったら、だれでもみんな心が澄み渡るようになるだろう。


 この神示にもありますように、カルマの清算は、私たちが新しい世界(=ミロクの世=神の国)へと移行するために、避けることのできない宿題ということができます。
 しかしながら、多くの人はそんなことには全く無関心で、毎日お金儲けの話や、自分の生活をエンジョイすることに心を奪われ、カルマの清算をするどころかますます新しいカルマを“生産”している有様です。
 子供のころ、夏休みのあいだ遊びに夢中になっていて、学校が始まる前夜にあわてて一夜漬けで宿題に取り組むということがありましたが、終末の時代はそのようなことではもう間に合わないと言われています。なぜなら、大峠が近づくにつれ、のんびりと宿題に取り組めるような平穏な世の中ではなくなるからです。
 多くの人はそのときに慌てて神頼み(?)に走り、「助けてください!」と神さまに泣きつくことになるのかも知れませんが、そのときではどうしようもないということが、『大本神諭』にも『日月神示』にも繰り返し述べられています。しかも、今回は「末代のこと」と述べられているのです。つまり、もはや生まれ変わりによって運命を修正していくことはできなくなるということです。
 今回の終末試験は卒業試験なのです。落第した人は二度と再試験のチャンスはなく、魂の居場所が永遠に定まってしまうということでしょう。私が「高をくくっていてはいけません」と警告的に申しあげているのはそのためです。

 まず私が最も信頼している神典の一つ『日月神示』の中の神示を選んでご紹介します。読んでいただけばわかる内容ですが、少し理解のためのポイントとなる解説をつけさせていただきました。神示は『太神の布告』(岡本天明・著/コスモテン・パブリケーション/1989年刊)からの引用で、現代仮名づかいに改めています。

 神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。運ひらくのも食物つつしめばよい、ことばつつしめばよい。
 悪く言われるとメグリ取ってもらえるぞ。悪く言うとメグリつくるのぢゃ。
 心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ。神のイレモノ
(を)動物などに自由にされていて、それでマコトの神の人間と申されるか。わからんと申してもあまりであるぞ。


 食べ物は少食がよい、言葉も不必要な言葉を発信しないほうがよい、ということです。饒舌はメグリ(カルマ)をつくり出すということが述べられています。他人の悪口を言うと、その人のカルマを自分がもらってくることになるのです。人から悪口を言われたら喜ばないといけないのです。自分の身に不幸な出来事として降りかかってくるかもしれないカルマを、その人に引き受けてもらうわけですから、大変ありがたいことなのです。
 自分の悪口を言われて腹を立て、同じように相手を悪く言うと、せっかくとってもらったカルマをまた奪い返してくることになります。神霊界の法則は本当によくできていることがわかります。
 心にカルマが積もり積もっていくと、波動が粗くなり、動物霊のような低級霊と波長が合って、そのうちに肉体を自由に使われるようになるということです。「悪魔がささやいた」と言って凶暴な犯罪に及ぶような事件が頻発していますが、加害者は間違いなく凶悪な霊に憑依されていたと思われます。
 心や言葉の波動がある特定の傾向をもつと、それは心の癖となってカルマを強固なものにします。仏教ではそれを「岩に書いた文字」と表現しています。「水に書いた文字」や「砂に書いた文字」はすぐに消えますが、いったん岩に刻むと簡単には消えなくなります。その「岩に書いた文字」のことを「カルマ」と思っていただければよいのです。
 岩の上に釘などで何度も何度も文字を書きますと、そのうちに固い岩が削れて文字が刻まれます。それがカルマをつくりだす姿なのです。「釘で岩に文字を書く」ということが、たとえば「いつも他人を悪く思う(言う)」ということであり、「いつも自分を不幸だと思う(ぼやく)」ことなのです。

 その人間にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり、試練であるぞ。

 カルマの清算という場合、自分のカルマだけとは限らないのです。先祖代々のカルマ、家族のカルマ、日本という国のカルマ、人類のカルマ、地球のカルマなど、私たちはたくさんのカルマの清算をしなくてはならないのです。
 かつて、ある著名なコンサルタントが「私にはもうカルマは残っていないらしい」と著書に書かれていましたが、それはカルマの意味をまったく理解されていない証拠です。私たちがこの終末の時代に人間として生まれているということは、カルマの清算をするためであることを理解する必要があります。試練のない人生はないからです。「自分にはカルマは残っていない」と思った段階で、既に“傲慢”という新しいカルマをつくっていることになるのです。

 むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、くやくしなったりするのは、まだメグリあるからぢゃ。

 カルマは潜在意識に刻まれた心の癖ですから、ことあるごとに表面化(顕在意識化)しようと働きます。怒りや悲しみなどの感情がむやみに湧き起こるときは、心の底に沈殿しているカルマの内容がどういうものであるかを理解するチャンスと見るべきでしょう。

 この道に入ってはじめの間は、かえって損したり馬鹿みたりするぞ。それはメグリ取っていただいているのぞ。それがすめば苦しくてもどこかに光見いだすぞ。おかげのはじめ。次に自信がついてくるぞ。胴がすわってくるぞ。心が勇んできたら、おかげ大きく光り出したのぢゃ。

 カルマの発散は、不幸な出来事(損に思うこと)が起こるという形をとります。そのことで心を曇らせると、新しいカルマをつくることになるのです。ですから、一見不幸に思える出来事は、それによってカルマを取ってもらっていると考える方がよいのです。
 今の世の中は、自分が得をする方法、他人よりも幸せになる方法を必死に追い求め、そういうことを処方する占い師や霊能者がテレビで人気を博していますが、それは視聴者に「カルマの増やし方」を教えていると言っても過言ではないでしょう。「大殺界」などの名称で人々を恐怖させるような占いを売り物にしている人のカルマは、どれだけ大きいものであるか想像もできません。
 今はむしろ、国や人類のつくったカルマまでも自分が引き受けようと思う気持ちを持つことが必要なのです。「我善し」でなく、世界の幸せを願うことが大切な時代を迎えているからです。

 メグリと申すのは、自分のしたことが自分にめぐってくることであるぞ。メグリは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。祓いせよと申してあることは、何もかも借銭なしにすることぞ。借銭なしとはメグリなくすことぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。それ払ってしまうまでは、誰によらず苦しむのぞ。人ばかりでないぞ。

 私たちのカルマは私たち自身がつくり出したものです。(もちろん、国民全部でとか、一家揃ってというように、複数の人たちと一緒につくり出したカルマもあります)ですから、不幸な出来事が起こったときに、他人のせいにしたり、他人を恨んだりしてはいけないということです。
 また、カルマには私たちがこの人生でつくり出したものだけでなく、過去世においてつくったものもあるということです。そのすべてを、これから終末までの間に清算してしまう必要があると述べられています。

 メグリは一家分け合って、国中分け合って、借銭なしにしてくだされよ。

 一家のカルマは家族が分け合い、国のカルマは国民が分け合って、すべて清算していかなくてはならないのです。個人のカルマだけと思う「我善し」の心に陥らないようにしなければなりません。

 今度は借銭なしになるまでやめんから、誰によらず借銭なくなるまで苦し行せなならんぞ。借銭なしでないとお土の上には住めんことに今度はなるぞ。

 「今度は」と二度も断ってあります。つまり、この世界をミロクの世にするためには、今回の大峠までにそのようなカルマはきれいさっぱりなくしてしまう必要があるということです。カルマの清算ができない人(魂)は、ミロクの世には住むことはできないと、はっきり述べられています。さて、そういう魂はどこに行くのでしょうか? (『大本神諭』では「根の国、底の国行き」となっていましたが‥‥)

 神は大難は小難にすることできるのであるが、なくすることはできんぞ。

 私たちが心を入れ替えることによって、カルマがつくり出す大難を小難にすることはできるということです。たとえば「車の正面衝突事故」を引き起こすところを、「家の柱で頭を打つ」程度に変えることはできるという意味です。いずれも“衝突する”というカルマ(=心の癖)が形として現れたものですが、私たちの受ける被害は天と地ほどの開きがあります。柱で頭を打ったときに、「ああ、大難を小難にしていただいた」と感謝の気持ちが湧き起こるようになれば、「(他と)衝突する」というカルマ(=心の癖)は消えているはずです。

 次に、当サイトにもアップしております魂との対話』(サンマーク出版)の中にある「カルマ」についての記述を取り上げてみたいと思います。

 あなたは永遠に責任から逃れられない

 私たちのほとんどは、「自分の行動のいくつかには責任があるが、そのすべてに責任があるというわけではない」というアイデアに慣れ親しんでいる。たとえば、自分が何かをして周囲の人たちと仲がよくなったときには、それを自分の手柄だと考えるが、結果的に彼らと議論になるような場合には、それは自分のせいではないと考える。

 あらゆる行動、思考、フィーリングが、意図によって動機づけられている。意図は、何らかの結果と一体となって存在する原因である。もし私たちが何らかの原因にかかわったとしたら、私たちがその結果とかかわらないことは不可能である。このようにきわめて深いレベルで、私たちは、自分のすべての行動、思考、フィーリングに関する責任を負わせられている。
 私たちは、自分の意図の果実のすべてを、みずから食べなくてはならないのである。よって、自分のさまざまな意図を認識するとともに、どの意図がどんな結果をつくり出すかを整理し、自分がつくり出したい結果につながる意図を選択することは賢いことである。

 他人を嫌悪する人間は、他人からの嫌悪を体験することになる。他人を愛する人間は、他人からの愛を体験することになる。キリストが「山上の説教」のなかで行なった、「自分がしてもらいたいと思うことを、人にしてあげなさい」という教えは、カルマの力学にもとづいた行動指針である。個別化されたカルマの法則は、「あなたは自分が世界に与えたものを、世界から受け取ることになる」といったところだろう。
 カルマは道徳的な力学ではない。道徳は人間が創造したものである。宇宙はけっして裁かない。カルマの法則は、私たちの道徳システムの内のエネルギーバランスをふくむ、あらゆるエネルギー・バランスを支配している。

 結果をまだ生み出していない原因のすべてが、まだ完結していない出来事である。それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある。そしてそのバランスは、必ずしもひとつの生涯のなかでとられるとはかぎらない。
――『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著/サンマーク出版)


 いかにもキリスト教的な説明のように感じられますが、カルマの法則を大変わかりやすく表現しています。
  私たちのすべての「行動」「思考」「フィーリング」には必ず「意図」が存在していて、その意図がそれにふさわしい“結果”を生み出す“原因”になっているということです。この中に「言葉」が含まれていませんが、言葉も行動の一つととらえれば、まさに仏教で教える「身・口・意」が“因”となって“果”を生み出すことを述べているわけです。
 そして、「結果を生み出していない原因はまだ完結していない出来事で、それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある」ということです。しかも「必ずしもひとつの生涯のなかでバランスがとられるとはかぎらない」と述べています。私たちが過去世でつくり出した原因の結果が現在の人生である――と考えることができるのです。
 この魂との対話』(サンマーク出版)は「全米で300万部を超えた驚異的なロング・ベストセラー」と本の帯に書かれていますが、わが国ではそれほどヒットしなかったようです。それは、もしかしたら翻訳(の回りくどさ)に問題があるのかも知れません。しかしながら、内容は大変深淵な真理を述べていますので、ぜひ手にとっていただきたい本です。当サイトにもできるだけ多くの文章を拾い上げる目的で「見出し」部分はリストアップしています。
 なお、余談ですが、この本とよく似たタイトルの別の本がシリーズで出されています。よく売れているということでしょう。私も何度か書店で手に取り、また1冊は購入して読んでみましたが、こちらは「百の真理に毒一つ」の本だと判断しました。
 誰にもわかるようなよいことを書いているように見えますが、その中に大変危険な「嘘」が混入されているからです。これは料理に混ぜられた「ヒ素」のようなもので、知らずに食べているといつの間にか精神が犯されていく危険性があるのです。
 さて、本題に戻しまして、最後は以前にも当「つぶや記」でご紹介したことのある『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)からの抜粋を再掲します。こちらはいかにも仏教的なカルマの説明となっていますが、内容は上記の『魂との対話』とそっくりであることがおわかりになると思います。まさに真理は一つなのです。

 カルマは何を意味しているというべきだろう? それは、わたしたちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべてそれに応じた結果をもたらすということを意味している。
 「たとえわずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、たとえ小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。それをブッダはこう言い表す。
 「悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから」。
 わたしたちの行為の結果は今はまだ熟していないかもしれない。だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。普通わたしたちは自分のしたことを忘れる。そしてはるか後になって、その結果がわたしたちに追いついてくる。その頃にはそれを原因と結びつけることはできなくなっている。(中略)
 わたしたちの行為の結果は遅れてやって来る。来世になることもある。そして、その原因をひとつに特定することはできない。なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマのきわめて複雑な複合体であるからだ。そのためわたしたちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。(中略)
 ブッダが言ったように、「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。パドマサンバヴァはさらに言う。「過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ」。
 つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。
―― 『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)

 
 
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