身・語・意から結果が生ず
2012年1月14日掲載分を復活しました 
 

 本日は当サイトで既にご紹介している『運命の法則』(原田豊實・著/三笠書房)の中から、カルマに関して書かれた内容を引用し、少し解説したいと思います。
 終末の時代を迎え、終末現象が一度に出現するようになりますと、私が身魂磨きの必要性を訴えても、多くの人はそれに耳を傾けるだけの心の余裕を失ってしまう可能性が高いと思われます。
 (たとえぱ首都直下地震や南海トラフ巨大地震などが日本列島を直撃した場合を想定してみてください。南海トラフ巨大地震の場合は、おそらく交通網や通信網など社会的インフラが各地で損壊し、国内から救援の手が届かない事態になるのは間違いないと考えられます。首都直下地震の場合は国家機能が喪失して大混乱になるのは避けられません。しかも、首都直下地震は2020年までに必ず起こると断言している政府系の地震学者もいるのです。そんななか、小池都知事は受動喫煙問題などにご執心でノホホンと構えているようですが、危機はそこまで来ているとみるべきです――2018年6月28日記)
 そういう意味では、これから数年は皆様の周りの方に「身魂磨き」の意味を理解していただくための最後のチャンスだと言えるでしょう。
 私もその自覚のもとにせっせと綴ってまいりますので、多くの人がこの「つぶや記」を読んでいただけるように、ご家族やお友達など、あなたが大切に思っておられる方々にお勧めください。
 以下は、『運命の法則』の抜粋(青い文字の部分)です。

 『マヌの法典』(田辺繁子訳・岩波文庫)より抜粋――

 諸根(その対象への)執着により、人は疑いもなく罪過に陥る。されど、もしそれら(諸根)を完全に抑制せば、彼は(その目的達成に)成功す。

 すべての事柄は(その性質上)言語によりて決定せるものなり。言語はその根元なり。而して、言語によりそれらは発展す。されど言語に関して不誠実なる者は、すべての事柄に於いて不誠実なり。

 行為は身・語・意より生じ、善悪いずれの結果も生ずるものなり。

 (人は)心によりて為せる(行為の結果)を、(その)心により享受し、語によりて為せる行為(の結果)を、(その)語により、身体によりて為せる(行為の結果)を、(その)身体によりて(享受す)。

 すべての生物に対し、この三重(身・語・意)の抑制を保ち、また完全に愛欲と怒りを制する者は、それによりて成就即ち究極の解脱を得。

■なわ・ふみひとの解説■
 マヌの法典も、私たちの運命に影響を与えるのは日々の「行動(身)」「言葉(語)」「想念・思念(意)」である、と述べています。仏教や聖書に述べられていることと全く同じです。残念ながら、まだ多くの人はこの単純明快な真理の重要性を信じていないか、信じていても身・語(口)・意をコントロールすることができず、愚痴や不満など他者を悪く言う言葉を口にしたり、他者の迷惑を考えない我善し(自己中心主義)の行為をしているのではないでしょうか。「善い」ということがわかっても、それを実行に移すことのできない人が多いということです。
 しかしながら、愚痴や不満を言うことで自分(の不遇な立場)を正当化したり、時には優越感に浸ったりすることの見返りは、これからは非常に速いスピードで返ってくることでしょう。時間のスピードが速くなっているということは、霊界に投げたボールがこの物質世界に返ってくるスピードも速くなるということです。
 その結果、たとえば自分のことを不運な人間だと思っている人は、そのことを愚痴ったり嘆いたりすることによって、ますます自分の周りに不運な環境を作り出すことになります。そのことによって更に愚痴や嘆きを重ねていくという悪循環に陥るのです。その悪循環を断ち切るためには、既に述べてきましたように、まず愚痴や不満を言いたくなる「1本の誘惑」を振り払い、決してマイナスの言葉を口にしないように努力しなくてはなりません。
 既に習慣化してしまっている愚痴や不満、他者の悪口などのマイナスの口癖は、1日も早く矯正する必要があるのです。それが「身魂磨き」の第一歩であり、また終末の大峠を前にして欠かすことのできない重要単元と言えるでしょう。


1. マヌが、われわれの人生に期待するものは永遠の福祉、最上の福祉なのである。現世においては、まず第一に「死に至るまで幸運を求むべし」といっている。 さらに、永遠の繁栄のために「天界の福祉」すなわち「解脱」を獲得せよと、説くのである。

2. マヌによれば、われわれは肉(個人我)と霊(最高我)からなり、霊は不死であって、われわれは業によって輪廻を繰り返しているというのである。

3. ところが、われわれは五官(肉)の欲にあまりに執着し、そのためにわれとわが身を束縛されている。マヌは、それではいつまでたっても「最高我」を楽しむどころか「満足」とか「幸福」の域には達し得ないのだと説く。

4. かくて、五官を抑制し、「功徳」(世のため、人のためになるよい行ない)を積むのが第一のステップだというのである。

5. われわれの行為とは「身・語・意」(仏教では身、口、意の三業という)による行為をいい、これが「業」(カルマ)となって、善因善果、悪因悪果の輪廻を三世(過去、現在、未来)にわたって展開している。

■なわ・ふみひとの解説■
  「善因善果、悪因悪果の輪廻」
と述べていますが、終末の大峠を越えると、この「輪廻」という霊界の仕組みはなくなると言われているのです。これまで「生まれ変わり(輪廻)」というサイクルのなかで、人は多くの体験を通じて気づきを得、身魂磨きを行なってきたのです。何度も生まれ変わりながら(あるいは類魂の気づきを共有しながら)、小学1年生が2年生にといった形で霊格を高め、進級してきたのでした。中には既に小学校を卒業するほどに霊格を高めた人(魂)もあり、そういう人は生まれ変わりの必要がなくなって高級霊となって霊界の波長の高い世界に進まれていると思われます。
  しかしながら、人類が作り出した現文明の終わりである終末の大峠は、小学校(地球学校)を卒業することになっているのです。卒業試験では、卒業できる人(魂)とできない人(魂)が選別されます。卒業できるかどうかは、「身魂磨きが一定のレベルまでできたかどうか」ということで決まるのです。
  そして、そのレベルを判定する基準をひとくちに言えば、「身・口・意をコントロールすることができるかどうか」ということなのです。「神の国」あるいは「ミロクの世」と呼ばれる新しい世界では、自分の思念(気持ち=心で思うこと)をコントロールすることができるかどうかが最も大切な能力ということになります。仏教で「貧・瞋・痴(とん・じん・ち)」という言葉で説明されている善くない心の癖を解消しておくことが不可欠なのです。貧・瞋・痴――即ち、「貪欲、色欲」「怒り」「愚痴、不平不満」といった最も善くない心の癖をなくしておく必要があるということです。

6. 「身、語、意」のうちでも、マヌはとくに「語」(口)が大切だと力説して、「真実を語るべし、愉快なる事を語るべし」「すべての事柄は言語によりて決定せるものなり。言語はその根元なり。而して言語によりてそれらは発展す」ともいっている。
 われわれも、ここで日常無意識に自分の口から乱発していることばが、そのまま自他に影響を及ぼし、しかもそれが三世に及んで作用するということを、とくと自省したいものである。

7. まさに「行為は身、口、意より生じ、善悪いずれの結果をも生ずるものなり」で、身、口、意の総決算がわれわれの行く末なのだ。貧、瞋、痴(むさぼり、いかり、しっと)を、マヌもとくに戒めている。

8. 仮に、われわれが悪い行為をして表向きは糊塗したとしても、内心の「我」(アートマン)つまり自分自身をごまかすことはできないのだ。すべからく自白し、懺悔せよとマヌは説くのである。

9. われわれの「最高我」は、われわれの心中に鎮座ましますのである。「一切有類の中において自我により自我を認識する者」すなわち真に「自己発見」する者こそ、最高の境地なる「梵」(解脱――悟り)に達するのだという。

10. そこで、マヌはこの「真我」に目覚めるために「瞑想」や「静慮」によって心身を統一して、霊魂の輪転の実体を見極めることが基本だと説くのである。

 最後に運命論について、いみじくも不滅の金言を残している。
 「この世におけるすべての行為は、運命の定むることおよび人力の両者に依存す」
 そして、運命の定めはわれわれの「思惟の及ぶところにあらず、人間の努力において行為は可能なり」で、われわれが可能な行為にベストを尽くすことが、最大の使命なのである。

■なわ・ふみひとの解説■
 終末の生き方は「果報は寝て待て」「棚からぼた餅」ということではありません。自ら努力することを怠っていては身魂磨きはできないのです。たとえこの世界が破局を迎え、人類が滅亡するような事態が起こるとしても、自分が「善い」と思うことをやり遂げるために最後の瞬間まで最大限の努力をするという姿勢が大切なのです。ことわざで言えば「人事を尽くして天命を待つ」ということになります。

 
一番望ましくない心の癖は「怠けること(先送りにすること)」と「高をくくること」です。聖書には、最後の瞬間になって人は地団駄を踏んで悔しがるといった表現があります。大本神諭や日月神示には、「最後に泣きついてきても助けることはできん」と述べられているのです。終末の大峠が近づくにつれて、時間はあっという間に流れてしまいます。高をくくることなく、怠ることなく、善いと思ったことから、そして自分のできることから、直ちに着手していきましょう。

  因と縁の世界

 「袖振り合うも他生の縁、躓(つまづ)く石も縁の端」といった古くからの諺があるが、これを「因縁果」といい、略して「因果」、英語では“cause and effect"に相当しよう。
 この因果の理法こそ、天地の根本原理であり、仏教では「諸行無常」といって、一切の現象は瞬時も止まることなく常に変遷する。その変遷は必ず因果の理法によるもので、三世永劫の長きにわたり錯綜して、この現象界をなしているというのである。
 そこで釈尊も、「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」と三世にわたる因果にとくに力点をおかれた。
 当面する現象だけを近視眼的に見ていたのでは、いくら科学的な分析を試みても、この因果の理法は解き明かすことができない。問題は、われわれに見えない三世の因果の働きをどう心眼をもって洞察し、この理法に正しく則って、お互いの天命を最善に全うし、世のため人のために、いかに「自利、利他」を行じていくかにある。
 禅学第一の書「無門関」第二則の「百丈野狐」に、一日作さざれば一日食(くら)わず」の逸話で有名な百丈和尚と、五百年の間野狐に生まれてきたという一老人との面白い問答がある。後段において老人の質問に対し、百丈はつぎのようにズバリと回答し、老人を大悟せしめたというのである。
 「遂に問う、大修行底の人、還って因果に落つるやまたなしや。師云く、不昧因果と。老人言下に於て大悟す」
 不昧因果とは、因果は昧(くら)ますことができないということで、かの山本玄峰老師は「無門関提唱」(大法輪閣刊)で懇切にコメントされている。

 「原因、結果の道理は、それはもう不昧因果じゃ。栗をまいて稲もできないし、米をまいても粟もできない。みなしらずしらずに、よい種、悪い種をまいておる。それがみな実ってきた因縁によって、いろいろ人間の甲乙ができる。ポカッと出てきたわけではない……」
 「妙な宿因で、悪業というか何かしらん、人間には一種の業というものがある。積んだ業はなかなか消えん。だから平生に気をつけて、悪業をしりぞける。衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、諸悪莫作(しょあくまくさ)、少しの善行でも行ないたてまつって、少しでも人に迷惑をかけんようにし、紙切れ一つでも感謝の念を払う。そのようにして善行を積んでいく……
 「憎しみを起したり、人の悪いことをちょっとでも思ったりしても、ああ申しわけないと、その場その場で反省する。人間じゃから、あいつはきらいなやつじゃと思っても、その場であやまっておくんじゃ。死にしなの今になってあやまっても、それはあやまらんよりはいいけれども、死に際に何ぼうまいこというてみたところで、もう取り返しがつかん、平生の心得というものが非常に大切じゃ
 われわれは日常の会話の中でも、「やれ因果なことだ」とか「因果な商売だ」などと口ずさんだりするのだが、ことほどさように「因果」は人間について回るものなのである。「因果歴然」「因果応報」「善因善果、悪因悪果」などといわれてきた所以は、まさにここにあるのだ。また「善念、善来」ということばもある。つまりよいことを念じつづければ、必ずよいことがおこるというのである。
 「与えよ。さらば与えられん」と『聖書』(ルカ伝6−38)にあるが、「感謝すれば、感謝される」のが真理なのだ。反対に、「人を呪わば穴二つ」で、他人を損えば結局自分を損うことになるのも、同じ真理といえる。
 この作用、反作用(action,re-action)の原理は、それこそ芥子粒ほど小さなものも目こぼしすることなく正確無比に反応するという。すなわち、因果の理法ほど科学的で、ごまかしのきかない厳しい世界はないのである。
 そういった意味で、倫理研究所の開祖・丸山敏雄師は『万人幸福の栞』(新世書房刊)で、さらに平明かつ具体的にこうとかれている。
 「人は人、自分は自分と別々のいきものだと考えるところに、人の世のいろいろの不幸がきざす。実は人はわが鏡である。自分の心を映す影像にすぎぬ」
 「親子、夫婦、交友、隣人、すべてわが鏡であって、わが心のままに変わって行く」
 「これをひろげて行くと、人の世のすべては、自分の鏡であり、さらに草木も、鳥獣も、自然の動きも皆、わが鏡であることが分かってくる。作物も、家畜も、わが心の生活をかえれば、その通りに変わってゆく」
 仏教では昔から「草木も成仏する」といってきたが今に変わらぬ真理である。
 ――『運命の法則』(原田豊實・著/三笠書房)


 最後の下線部分の解説に代えて、拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の中から「善くないカルマを貯めない方法」について述べた一文をご紹介し、本日の「つぶや記」を終わりたいと思います。

■ 水に書いた文字、砂に書いた文字、岩に書いた文字

 潜在意識の奥深くにため込まれた内容は、カルマとなって私たちの人生にさまざまな影響を及ぼします。俗にいう不幸な出来事として表面化する場合と、恵まれた幸せな境遇として、この世的にはラッキーと思われるような幸運をもたらすこともあります。仏教で言う「善因善果、悪因悪果」ということです。神様や仏様が勧善懲悪をされるというわけではなく、いずれも因果の法則を理解させるために仕組まれた現象なのです。「善果」に有頂天になり、努力を怠ると、悪いカルマをつくり、いずれは「悪果」となって返ってきます。このように波動の法則は大変奥深いものがあるのです。
 過去にため込んだ悪因の結果は甘んじて受けとめなくてはなりませんが、そのことによって新しい悪因をつくらないようにするにはどうすればよいのでしょうか。
 そのことを仏教では「水に書いた文字(よくやった)」「砂に書いた文字(よかろう)」「岩に書いた文字(避けよ)」に例えて教えています。悟りを開いていない私たち人間が、この人生で直面する様々な出来事によって、瞬間的によくない波動を発信してしまうことは避けられないことでしょう。たとえば、通勤電車の中で足を踏みつけた相手が、わびることもなく涼しい顔をして降りていくとき、「こら、ひとこと謝れ!」という気持ちが起こるのは自然な感情でしょう。あるいは勤務先の上司から些細なことで厳しく叱られたときに、「この野郎。覚えとけ!」という気持ちを持つことがあるかもしれません。
 水に書いた文字というのは、そのような気持ちを持ったとしてもすぐに思い直して、相手に対して悪い波動を発信したことを、心の中でわびなさいという意味です。そうすれば、マイナスの波動が中和され、あたかも水の上に書いた文字のように、書くそばから消えていって、潜在意識に刻まれることはないというわけです。
 砂に書いた文字というのは、風が吹くと砂の上の文字が徐々に形をなくし、やがて消えてしまうことを表しています。それは、人を恨んだとしても、夜寝るまでにその対象となる人を許し、逆に恨みの念を発信したことをわびなさいという教えです。
 夜眠りにつくと、潜在意識の扉が開くと言われています。そのとき、私たちが心に残していた恨みの気持ちや不安な気持ちなどが、まとめて潜在意識の中に畳み込まれるのです。しかも、潜在意識の中に入った心の傾向は、睡眠中にどんどん成長していくと言われています。それはちょうど車のハンドルに例えられていて、私たちが寝る前に切ったハンドルの状態は、睡眠後もそのまま固定され、車はその方向に進んで行くのです。
 恨みや不安、怒りなどの気持ちを抱いたまま眠りにつくと、その気持ちはますます強化され、目が覚めたときにはさらに強い恨み、不安、怒りなどの気持ちとして意識されることになります。そして、「類は友を呼ぶ」の法則の通り、現実の世界でもさらにそのような気持ちにさせる出来事を引き寄せてくることになり、それはまた潜在意識にため込まれ、成長していくという悪循環に陥ることになります。
 このように、眠りにつくときにまだ気持ちの整理がつかないものを残しておきますと、その気持ちは潜在意識にしっかり刻まれることになります。ここまでくると消すことのできないカルマとなり、病気や事故といった現象として形を現してきます。これを、岩に書いた文字と表現しているのです。
 夜寝るときに、その日の出来事を振り返り、人を恨む気持ちがあればその人を許し、また恨みの気持ちを抱いたことを反省し、わびることです。また、このような気づきを与えてもらったことを感謝し、「ありがとうございました」とお礼が言えれば悟りの境地と言えるでしょう。もちろん、最初は「ありがとうございました」を何十回も唱えてから寝るというふうに、形から入ってもらえばいいのです。
 同じように、不安な気持ちが心を占領しているときは、「大丈夫」「きっとうまくいく」「もう解決した」といった言葉を何度も口ずさんだあとで眠りについていただくことをお勧めします。これは宗教が教えている内容ではありません。潜在意識がどのような働きをするかという科学的理解に基づいた処方箋で、私自身も実践してきたことです。
 ―― 『2012年の黙示録』(なわ・ふみひと著/たま出版)


 
 
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