4月25日(
025)に再開した当「つぶや記」は、当初の「日本沈没編」から現在は「身魂磨き編」へと進んでいます。「日本沈没編」が半信半疑の方は「身魂磨き編」はますます理解できない、共感できない内容になっていることと思います。
そもそも「世界支配層」なる存在が本当にいるのかどうかについて、疑問を持つ人が多いことでしょう。世界はいま米中二大国がしのぎを削っていると、マジに信じている人には、「世界支配層」なる概念は理解しがたいに違いありません。
当然、その世界支配層が「日本沈没テロ」を仕掛ける理由や目的についても理解できないでしょう。
そういう状態のまま「身魂磨き編」を読んでいただくことは大変申し訳なく思いますが、このまま続けさせていただきます。「つぶや記」の内容が半信半疑の方は、もう一度バックナンバーを最初から読み返していただくようにお願いしたいと思います。
なにしろ、もう時間はあまりないのです。
「日本沈没テロ」が実行に移されれば、日本は間違いなく沈没し、国家としては消滅することになります。ですから、もし何も準備しないまま「Xデー」を迎える人は、その後の世界大恐慌のなかで、文字通り国内難民としての厳しい現実に直面することになるでしょう。
一口に言えば、路頭に迷うということです。もし巨大地震の被害がなかったとしても、大恐慌は世界中で大失業と食料危機を生み出します。
そのような状況が近づいているなかで、終末において最終的に人類はどうなるのか、ということが、わが国の神示のなかにも新約聖書のなかにはっかりと述べられています。「終末の大峠を迎えたら、人は選別される」という内容です。
そのことを、拙著『日本沈没最終シナリオ』(たま出版)のなかで解説しておりますので、当「つぶや記」でご紹介し、これからの生き方の参考にしていただけたらと願っている次第です。
以下は、拙著『日本沈没最終シナリオ』からの抜粋です。まず「神示編」の内容から――
子が天国で親が地獄ということもある
終末において人が選別されることは、新約聖書では「羊飼いが羊とやぎとを分けるように人をより分ける」と表現されています。つまり、終末には「救われる人」と「救われない人」に分かれるということです。同じ内容が「大本神諭」と「日月神示」ではハッキリと「神と獣を分ける」という表現になっています。では、神と獣に分ける基準は何でしょうか。以下の神示に目を通してみてください。
今の世見ても、まだわからんか。神と獣とに分けると申してあろが。早うこの神示読み聞かせて、一人でも多く助けてくれよ。(日月神示)
今の内に神徳積んでおかんと八分通りは獣の人民となるのざから、二股膏薬ではキリキリ舞いするぞ。キリキリ二股多いぞ。獣となれば、はらから食うこともあるぞ。(日月神示)
神世の秘密と知らしてあるが、いよいよとなりたら地震雷ばかりではないぞ。人間アフンとして、これは何としたことぞと、口あいたままどうすることも出来んことになるのぞ。四つん這いになりて着るものもなく、獣となりて這い回る人と、空飛ぶような人と、二つにハッキリ分かれて来るぞ。獣は獣の性来いよいよ出すのぞ。(日月神示)
「二股膏薬」とは、自分にハッキリした考えがなく、あっちについたりこっちについたりすることです。ここでの二股の一つは「ミロクの世で生きるために魂を磨く」こと、もう一つは「現世利益」でしょう。この世の価値観で、お金や名誉、地位など、物質的な繁栄を求めることは「体主霊従」の生き方と呼ばれています。逆に、心の問題を重視して生きることを「霊主体従」と言い、終末のあとに訪れる「ミロクの世」での生き方とされているのです。
神示は、私たちがどっちつかずの生き方をしていると、終末の土壇場ではキリキリ舞いをすることになると心配しているのです。「獣的な人間」になってしまったら、食料がなくなれば「はらから(同胞)」つまり人間の肉を食べることになるぞと警告しています。太平洋戦争で生還した人の中に、死亡した仲間の肉を食べたことを告白している人がいました。極限的状況になると人は獣の相を顕してしまうおそれがあるのです。
今度は親子でも夫婦でも同じように裁くわけにはいかんのざ。子が天国で親が地獄というようにならんようにしてくれよ。一家揃うて天国身魂となってくれよ。国皆揃うて神国となるようつとめてくれよ。(日月神示)
必ずしも子供より親のほうが身魂が磨けているとは限りません。最近の親は「我善し」の人も多いからです。学校から「モンスター」と恐れられるような親は昔は見られませんでした。そのような人は終末の選別によって子供と永遠に別れてしまうことになるかも知れません。
この終末の時代に、縁あって同じ家族として生まれた以上、次の新しい地球でも一緒に生活したいと思うのが人情でしょう。それに執着しすぎると煩悩が生まれ、新しいカルマをつくってしまいますが、それを願ってともに努力をすることは価値のあることです。自分だけ助かろうとする気持ちでなく、せめて家族揃って、そしてできればこの人生でご縁のあった人たち全員が、あるいはすべての日本国民が、‥‥という考えになれることが大切だと教えているのです。
つづいて、拙著『日本沈没最終シナリオ』の「新約聖書編」からの抜粋です。
神は人の髪の毛の1本まで数えておられる
ここで「御国」「天」「地」という言葉の概念を整理しておきます。「御国」とは「神の国」ということで、終末のカタストロフィーを経て人類が地球といっしょに次元上昇して行くことになっている世界のことです。新約聖書に限らず、「日月神示(ひふみ神示)」などのわが国の神示においても、この三次元の物質世界(=地)がスタートしたときから、次元上昇の時がくることは決まっていたと述べられています。
これに対して「天」とは一般的な言葉で言えば「霊界」のことを言っています。次元でいえば四次元ということです。霊界通信などを通じて、人は四次元の霊界(天)と三次元の物質世界(地)を行ったり来たり(輪廻転生)しながら魂を磨いてきた、ということが判っています。その魂を磨く上でもっと大切な法則がカルマの法則なのです。私たちの日頃の心の持ち方、行ない、発する言葉(=身・口・意)は私たち自身の心(潜在意識)の波長に影響を及ぼし、その波長に応じた境遇を、この現実世界(実は「うつし世」といって心の世界が反映された世界)においても霊界においても体験することになります。
心(潜在意識)が地獄のような想念に満たされていれば、あの世(霊界)でもこの世でも地獄のような生活を体験することになるということです。
そのような私たちの「心の状態」がもれなく記録されていると言われているのが「天の蔵」です。「大本神諭」や「日月神示」では、その時代の人たちに理解できる言葉で「すべて帳面につけてある」という表現が使われています。新約聖書では、「(あなたがたの父は)あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」というイエスの言葉が同じことを述べているのです。
世の初めから決まっている終末の大峠を越えると、この「天(四次元)」と「地(三次元)」がまとめて「神の国」へと移行(次元上昇)することになります。ですから、もし「神の国」を次元で表現すれば「五次元以上の世界」ということになります。
それは一般的に考えられている「天国」とは違うのです。天国は四次元の世界における精妙な波長の高い階層ということです。その反対に波長の粗いのが地獄的世界で、これは四次元の低い階層ということになります。
これから迎える次元上昇のときには、この低い階層の住人は神の国の波長とは合わないため地獄的世界に取り残されることになるのです。聖書的表現をしますと、「地獄の釜のふた」が閉じられて、神の国へと移行した人間に干渉することができなくなるということです。新約聖書のヨハネの黙示録によれば、そのような状態が約千年間続くそうで、その期間にちなんで「千年王国」と呼ばれています。
この千年王国は、「日月神示」の中で述べられている「半霊半物質の世界」のことだと思われます。次元上昇してから千年後に、もう一度人類はふるいにかけられて、その後に真正の神の国(神界)に変わると言われています。
この地球ごと次元上昇したあとに現れる神の国は、文字どおり神様の住む世界ということで、次元上昇した人たちは「神様にも匹敵するような存在」になるわけです。そのことが「日月神示」では「新しい世界では人が神となる」と表現されています。
神の国は、「与えたものと同じものがすぐに返ってくる」というカルマの法則に支配された世界ですから、その世界に住むことができる住人は、この世にいるときから心のコントロール法を身につけておく必要があるのです。たとえば他人を憎むような気持ちを持つと、その憎しみの念はこの物質世界よりもはるかに強烈なパワーを持って憎しみの対象となる人を傷つけ、同時に自分をも傷つけることになるからです。「丑の刻参り」として知られる呪い釘の呪法と同じレベルのことが、普通の状態ですぐに実現してしまうことになるということです。そのような憎悪の念が飛び交う世界はとても神の国と呼べるものではないでしょう。
終末には人はこうしてふるいにかけられる
さて、この項の最後に、神の国に行ける人と行けない人は何によって分けられるのかということがよくわかる新約聖書の中の一文をご紹介しておきます。この文章を読んでいただくと、「隣人」とは「弱い立場の人」を総称していることが分かります。
終末の土壇場では、そういう弱い立場の人に慈悲の心を表すことができたかどうかを基準にして、人がふるいにかけられるのです。要するに、「髪の毛一本」の譬えのとおり、私たちの日頃の言動は一つ残らず神さまによって把握されているということです。
人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくでしょう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左におくでしょう。
そのとき、王は右にいる人々に言うでしょう。「わたしの父に祝福された人たちよ。さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてきてくれたからです」。
そのとき、正しい者たちは答えて言うでしょう。「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」。
すると、王は答えて言うでしょう。「あなたがたによく言っておきます。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい人のひとりにしたことは、すなわち、わたしにしたことになるのです」。
それから、左にいる人々にも言うでしょう。「のろわれた人たちよ。わたしを離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火にはいってしまいなさい。あなたがたは、私が空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを訪ねてくれなかったからです」。
そのとき、かれらもまた答えて言うでしょう。「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、私たちはお世話をしませんでしたか」。
そのとき、彼は答えて言うでしょう。「あなたがたによく言っておきます。これらの最も小さい人のひとりにしなかったことは、すなわち、わたしにしなかったことになるのです」。
そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい人は永遠の生命に入るでしょう。
(マタイによる福音書)
以上、日月神示と新約聖書を対比しながら、終末において人がふるいにかけられ「二つに分けられる」という内容を見てきました。改めて解説する必要はないでしょう。
これらの内容を信じるか、信じないか――それは個人の自由です。大本神諭や日月神示には「生まれ赤子のような素直な気持ちで、神のいうことを何も疑うことなく信じなさい」と述べられていました。何を信じ、何を信じないかは人の個性であり、能力とも言えます。いまは正しいことを正しいと信じる能力が試されていると言えるでしょう。
何度も申し上げますが、もう残された時間は少ないのです。
次回は終末における「お金」の問題について取り上げます。題して「金で世を潰して、ミロクの世と致す」です。拝金主義がはびこる日本社会において、これからはお金の問題に決着をつける必要が生まれます。すべての人に関係のあるテーマです。ご期待ください。