第1章 偶然はない

 こう考えてもらえばいい。わたしはずっと悪評につきまとわれてきた。いまでも、わたしを「死とその過程の女」とみなす人たちに追いまわされている。その人たちは、死と死後のいのちの研究に30年以上も費やしてきたわたしを死の専門家だと信じこんでいる。曲解というものだ。
 唯一の明白な事実、それはわたしの仕事が生の重要性の研究であるということだ。 わたしはいつも、死ほど貴重な経験はめったにないとしっている。それは日々をちゃんと生きていれば恐れるものはなにもないということでもある。
 まちがいなくわたしの絶筆になるはずの本書によって、そのことがあきらかになるだろう。本書はまた、いくつかの新しい問いを提出し、もしかしたらその問いに解答を添えることにもなるかもしれない。

 ここアリゾナ州スコッツデールにある自宅の、花に囲まれたリビングルームに座ってふり返ると、過ぎ去った70年がとてつもないもののように思われる。スイスで育った少女時代、いかに破天荒な未来を描いたとしても――かなり破天荒な未来を描いたつもりだったが――、自分が世界的に知られた『死ぬ瞬間』の著者として終わることになろうとは想像だにしなかった。人生の終幕について探究したその本のおかげで、わたしは医学と神学における激しい論争のまっただなかに放りだされることになってしまった。ましてや、あげくのはてに、「死というものはないのだ」ということを説明するためにわずかに残された時間を費やすことになろうとは、それこそ夢にも思ったことはなかった。
 両親の推測によると、わたしはまじめに教会に通う、しとやかなスイスの主婦になるはずだった。ところが、いざ蓋(ふた)をあけてみると、なんとアメリカは南西部に居を定め、この世よりははるかにすばらしく荘厳な世界の霊たちと交信する、依怙地な精神科医、物書き、講演者として終わろうとしている。現代医学は人びとに苦痛のない人生を約束する予言者にでもなったつもりらしいが、たわごとも甚だしい。わたしが知るかぎり、人びとを癒すものは無条件の愛しかないというのにである。
 わたしの考えかたは、いくらか型破りなものかもしれない。たとえばわたしはここ数年のあいだで脳卒中の発作に六回見舞われた。そのうちの一回は去年、1996年のクリスマスの直後だった。主治医からは煙草とコーヒーとチョコレートをやめろと警告され、ついには懇願もされた。でも、わたしはまだそのささやかな快楽を享受している。なにが悪い? これはわたしの人生なのだ。
 わたしはいつもそのようにして生きてきた。頑固に自説を曲げず、独立心が旺盛で、つまずきやすく、多少常軌を逸しているとしても、それがどうしたというのか? それがわたしなのだ。
 人生の個々のできごとは、たがいに噛みあわないようにみえるかもしれない。
 だが、わたしは経験をつうじて、人生に偶然などはないということを学んできた。
 起こったことは、起こるべくして起こったのだ。
 わたしは死にゆく患者たちと仕事をすべく定められていた。はじめてエイズ患者と出あったとき、わたしにはほかに選択の余地がなかった。生と死のはざまで味わう最大の苦痛に対処する方法をその人たちに伝えるために、毎年、40万キロもの旅行をつづけ、各地でワークショップをひらかずにはいられなかった。晩年におよんでは、やむにやまれぬ思いでヴァージニア州の田園地帯に300エーカーの土地を買い、自営のヒーリングセンターを開設した。エイズに感染した乳幼児たちをそこで養子にむかえる計画を立てた。そして、思いだすのもつらいことだが、その田園から鞭をもって追われたこともまた、わたしの運命だったのだ。
 一九八五年、エイズ感染児を養子にするという意向を発表した直後に、わたしはシェナンドー谷でもっとも忌むべき人間になりさがった。やむをえずその計画を放棄したあとでさえ、脅迫者たちはわたしを追いだすために殺人をも辞さない卑劣な行為をとりつづけた。わが家の窓は銃弾で撃ちぬかれ、家畜たちが撃ち殺された。美しい土地での静かな暮らしは、打ちつづく脅迫によって惨めで危険なものになった。だが、それはわたしの家だった。わたしは頑強に引っ越しを拒んだ。
 その10年前、わたしはそこヴァージニア州のヘッドウォーターズにある農場に移り住んだ。すべての夢をかなえるに足る農場だった。出版と講演で得た収入をぜんぶそこに注ぎこんだ。自宅を建て、近くに来客用の宿泊施設を建て、農場スタッフの宿舎を建てた。ヒーリングセンターを建て、そこでワークショップをひらいた。消耗する旅行のスケジュールは大幅に楽になった。エイズ感染児たちを養子にするという計画が浮かんだのはそのときだった。たとえ余命がほんのわずかでも、子どもたちはその美しい自然に囲まれた生活をたのしんでくれるはずだった。
 農場での簡素な生活はわたしのすべてだった。長い空の旅を終えてわが家にほど近い曲がりくねった道にたどり着くと、からだの芯からくつろぎがひろがった。どんな睡眠剤にもまして、夜の静けさが神経をやわらげてくれた。朝は動物たちの鳴き声のシンフォニーで目がさめた。牛、馬、鶏、豚、ロバ、ラマたち……。旅から帰ったわたしを全員がにぎやかに歓迎してくれた。みわたすかぎり野原がひろがり、朝露がきらきらと光っていた。太古から生きている樹木たちが沈黙の叡知をたたえていた。
 すべきことはいくらでもあった。泥だらけの両手はいつも大地に、水に、陽光にふれていた。ふたつの手がいのちの材料をこねまわしていた。
 わたしの人生。
 わたしのたましいがそこにあった。
 そして、1994年10月6日、わが家に火が放たれた。
 家は全焼した。資料も原稿も宙に消えた。もてるものすべてが灰燼に帰した。
 家が火の海につつまれているという知らせを受けたのは、帰路の飛行機に乗るべくボルティモア空港を小走りで急いでいたときだった。携帯電話の先の友人は、まだ家に帰るなと哀願した。しかし、わたしはそれまでにも両親や知人から「医者になるな」「瀕死の患者と面接するな」「刑務所にエイズ・ホスピスをつくるな」といわれつづけてきた。そして、そのつど、人に期待されることより自分が正しいと感じたことを頑固に実行してきた。そのときも同じだった。
 だれだって生きていれば辛苦を経験する。つらい経験をすればするほど、人はそこから学び、成長するのだ。
 飛行機は離陸し、着陸した。友人の車の後部座席に乗りこんだ。車は真っ暗な田舎道を猛スピードで走った。もうすぐ夜中の12時になるところだった。家まで数マイルを残すあたりから、夜空を焦がす紅蓮の炎と煙がみえた。それは漆黒の闇のなかに恐ろしげな勢いで立ちのぼっていた。大火であることはすぐにわかった。家、いや、家だったものに近づいた。巨大な炎の向こうに残骸がみえた。地獄の真ん中に立ってみるような光景だった。消防士は口々に、こんな大きな火災はみたことがないといっていた。烈しい熱は夜どおし消防士を寄せつけず、かれらは朝になってはじめて現場に踏みこむことができた。
 あけがた近く、わたしは来客用の宿泊施設でやすむことにした.コーヒーをいれ、煙草に火をつけ、焦熱地獄と化したわが家が呑みこんだ宝物について考えはじめた。胸がつぶれる思いだった。父が保存しておいてくれた何冊もの少女時代の日記帳、論文、備忘録、死後の生にかんする研究用の二万件におよぶケースヒストリー、先住アメリカ人美術のコレクション、アルバム、衣類……すべてが消えた。
 まる一日、ショックから立ちなおれなかった。どう反応していいのかがわからなかった。泣くべきか、叫ぶべきか、神を呪って拳をつきあげるべきか、それとも非情な運命の狼藉に茫然自失すべきなのか。
 逆境だけが人を強くする。
 人はいつもわたしに死とはなにかとたずねる。死は神々しいものだと、わたしは答える。死ほど安楽なものはないのだ。
 生は過酷だ。生は苦闘だ。
 生は学校に通うようなものだ。幾多のレッスンを課せられる。学べば学ぶほど、課題はむずかしくなる。
 火事はその課題のひとつだった。喪失を否定しても無益である以上、わたしはそれを受容した。ほかになにができただろう? つまるところ、失ったものはものにすぎない。いかにたいせつなものであれ、あるいはいかに痛ましい感情であれ、いのちの価値にはくらべようもない。わたしはけがひとつ負わなかった。すでに成人しているふたりの子どもたち、ケネスもバーバラも生きている。脅迫者たちはわが家と家財一式の焼き討ちには成功したが、わたしを滅ぼすことはできなかったのだ。
 教訓を学んだとき、苦痛は消え失せる。
 地球の反対側ではじまったわたしの人生は事件が打ちつづき、けっして楽なものではなかった。それは愚痴ではなく事実である。困苦なくして歓喜はない。それをわたしは学んできた。苦悩なくしてよろこびはないのだ。戦争の悲惨がなければ平和のありがたさがわかるだろうか? エイズがなければ人類社会が危機におちいっていることに気づくだろうか? 死がなければ生に感謝するだろうか? 憎しみがなければ、究極の目標が愛であることに気づくだろうか?
 わたしが気に入っていることわざに「峡谷を暴風からまもるために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美をみることはできなくなる」というものがある。
 3年前のあの10月の夜は、たしかに美がみえなかったときのひとつだった。しかし、それまでの人生でも似たような隘路をまえに、ほとんど闇と化した地平線に目をこらしてなにかを探しつづけたことは何度もあった。そんなとき人にできるのは拒絶しつづけて責める相手を探すか、傷を癒して愛しつづけることを選ぶかのいずれかである。存在の唯一の目的は成長することにあると信じているわたしは、後者を選ぶことをためらわなかった。
 そして火事から数日後に車で町へ行き、着がえを買って、なんであれ、つぎに起こることにそなえた。
 ある意味では、それがわたしらしい人生なのだ。
 
 
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