第2章 さなぎ

 生のどの時点にあっても、人は歩んで行くべき方向を示唆する手掛かりがみつかるものだ。それに気づかない人はへたな選択をして、みじめな人生に終わる。細心の注意を払う人はそこから教訓を学びとり、良き死をふくむ良き生をまっとうする。
 神が人間にあたえた最高の贈り物は自由意志だ。ありうるかぎり最高の選択をする人の両肩には、自由意志がどっしりと重い責任を乗せてくる。
 はじめてたったひとりで決死の選択をしたのは、小学校の六年生のときだった。学期末に、担任の先生から課題がでた。おとなになったらなにになりたいのかを作文にするという、当時のスイスではことさらに重要な課題だった。生徒のその作文を参考にして将来の教育コースがきめられていたのである。職業教育を受けるか大学をめざして厳格な学業をつづけるか、道はふたつにひとつしかなかった。
 わたしは勇気を奮いおこしてペンと用紙をにぎりしめた。だが、運命を切りひらくのだといくら自分にいい聞かせてみても、現実はちがっていた。わたしには未来が残されていなかった。
 思いはどうしても前夜のできごとにもどっていった。夕食が終わるころ、自分の食器を脇に片づけた父は、子どもたちの顔を順番にみすえると、ある重要な宣告をくだした。エルンスト・キューブラーはがっしりとした偉丈夫で、一徹な男だった。長男のエルンスト・ジュニアにはとくに厳しく接し、そのときも一流大学にすすむように命じた。つぎはわたしたち三つ子の姉妹の将来がきめられる番だった。
 わたしは固唾をのんでその宣告劇をみまもった。三つ子のなかでいちばん虚弱だったエリカには大学進学への道が命じられた。いちばん鷹揚(おうよう)なエヴァは家政教育を受けるように告げられた。ついに父の目がわたしに向けられた。どうか医者になるという夢をみとめてください、とわたしは祈った。
 父がその夢を知っていることはたしかだった。
 しかし、生涯忘れられない瞬間がやってきた。
「エリザベス。おまえは父さんの会社で働くんだ」父はいった。「あたまがよくて、仕事ができる秘書が必要なんだ。おまえにちょうどいい」
 わたしは落胆した。見分けのつかない三つ子のひとりとして育ったわたしは、ものごころがついたときからアイデンティティーをもとめて苦闘していた。そしてこのときもまた、自己の思いや感情の独自性が否定されようとしていた。父の会社で働いている自分の姿を想像した。尼僧になったほうがまだましだった。一日中デスクに向かって数字を書きつける。グラフ用紙にひかれた直線のように硬直した日々にちがいない。
 それはわたしではなかった。ごく幼いころから、わたしはいのちの営みに強く惹かれていた。畏(おそ)れと敬いのこころで世界をながめていた。カントリー・ドクターになるのが夢だった。できることなら、尊敬するアルベルト・シュヴァイツァーがアフリカでしたように、インドの貧しい人びとの村で開業したかった。なぜそう考えるようになったのかはわからないが、父の会社で働くことだけは断じてみとめられなかった。
「いやよ!」わたしは素っ気なくいい返した。
 その時代、とくにわが家では、子どものそうした反抗的な態度はご法度だった。父の顔は怒りで紅潮した。こめかみの血管が怒張していた。怒号が降ってきた。「父さんの会社で働きたくないのなら、一生、メイドで終わるんだな」父はそういい捨てて、乱暴な足どりで書斎へ入っていった。
「かまわないわ」わたしも負けずに応酬した。本気だった。たとえ父親であろうと、他人から簿記係や秘書の人生を送れと命じられるぐらいなら、メイドでも断食でもする気だった。わたしにとって、事務の仕事は牢獄にもひとしかった。
 翌朝、学校で作文を書きはじめたわたしは、前夜の記憶で心臓が破裂しそうになるのを感じながらペンを走らせていた。事務の仕事のことには一語もふれなかった。そのかわりに、シュヴァイツアーを慕って密林に入る夢や、いのちの多様なかたちを研究する夢を情熱的に書きつづった。「わたしはいのちの目的をみつけだしたいと思います」ではじまったその作文には、公然と父に逆らって、医者になるという夢が書きこまれていた。作文を父に読まれて、また叱責されてもかまわなかった。だれにも夢を奪わせるつもりはなかった。「いつかきっと、自分の力でそれをやりとげます」わたしは書きつづけた。「いちばん高い星をめざすべきだと思うのです」

 小さなころから、わたしには三つの疑問があった。自分らしさがはっきりしない三つ子に生まれたのはなぜか? 父はなぜあれほど頑固なのか? 母はなぜあれほどやさしいのか?
 なるべくしてそうなっていたのだ。それは「計画」の一部だった。
 どんな人にも守護霊または守護天使がついていると、わたしは信じている。霊や天使は人間の生から死への移行に手を貸し、生まれるまえに両親選びを助けてくれているのだ。
 わたしの両親はスイスのチューリッヒに住む、典型的なアッパー・ミドルクラスの、保守的な夫婦だった。ふたりとも、とりたてて目立つこともなく旧弊な価値観のなかで生きていた。チューリッヒ最大の事務用品会社の副社長だった父は頑健で、まじめで、責任感の強い、堅実な男だった。その濃褐色の目には、人生におけるふたつの可能性――自分のやりかたとまちがったやりかた――だけが映っていた。
 その一方で、父には貪欲なほどの生への熱情があった。家庭ではピアノを囲む家族の合唱を大声で歌いながら指揮し、スイスの壮大な自然美の探索をなによりも好んでいた。信望あるチューリッヒ・スキークラブの会員としての父がいちばん幸福だったのは、アルプスでスキーか登山かハイキングをしているときだった。その資質は子どもたちにも受け継がれていた。
 母は父ほど熱心には山歩きをしなかったが、いつも日に焼け、ひきしまったからだで、みるからに健康そうだった。愛くるしく、主婦としての腕も立ち、そのことが自慢でもあった。料理は玄人はだしだった。着る服の多くは自分で縫い、あたたかいセーターを編み、いつも家をきれいに片づけ、ガーデニングに精をだして、近所の人たちからほめられていた。父の仕事を陰でしっかりと支えていたのも母だった。兄が生まれてからは、良き母親であることに献身した。
 しかし、母の理想を完成させるためには、もうひとりかわいい娘が必要だった。母はすぐさま二度目の妊娠をした。1926年7月8日、いよいよ出産がはじまるとき、母は巻き毛のマフィンのような女の子の誕生を祈った。人形のようなかわいい服を着せたいと願っていた。陣痛のあいだ、年老いた産科医のB先生がつき添っていた。母の状態を伝え聞いた父が、期待に胸をふくらませながら会社から駆けつけた。医師の手が赤ん坊をとりあげた。死産のケースを除けば、分娩室にいた医療スタッフの全員がはじめてみるようなちっぽけな未熟児だった。
 それがわたしの誕生だった。体重は900グラムしかなかった。医師はわたしの小ささに、というより、外観にショックを受けた。わたしは二十日鼠の赤ん坊のようにみえた。スタッフはだれもわたしが無事に育つとは思わなかった。それでも、父はうぶ声を聞くとすぐに廊下に飛びだしていった。そして、電話で祖母に「また男の子だ」と知らせた。
 分娩室にもどった父は、ナースから「キューブラー夫人はお嬢さんをお産みになりましたよ」と告げられ、あまりに小さな未熟児は性別がわかりにくいことがあると教えられた。父は電話機までひき返して、はじめての女の子であることを祖母に伝えた。
「名前はエリザベスにするつもりです」父は誇らしげにいった。
 母をねぎらうつもりで分娩室にもどった父は、またもや驚かされることになった。ふたり目の女の子が生まれたばかりだったのだ。わたしと同じく、その子も900グラムのやせっぽちだった。父がその朗報を祖母に知らせてもどってくると、母はまだ産みの苦しみに耐えていた。まだよ、もうひとりいるの、と母は強い口調で訴えた。父は母が疲労のあまりに意識が混濁しているのだと考え、経験豊かな老女医は首をかしげながらも父の意見に同意した。
 ところが、母の陣痛がとつぜん頻度をましはじめた。母はいきみだし、やがて三番目の女の子が生まれた。その子は大きく、体重も三キロ弱と、先に生まれたふたりの子の三倍もあった。しかも、その子の頭には巻き毛が生えそろっていた! 母はぐったりとしながらも期待で身ぶるいをしていた。ようやくのことで、9か月間夢みてきた娘が生まれたのだ。
 老女医のB先生は千里眼を自認している人だった。長い職歴ではじめてとりあげた三つ子の顔をしげしげとながめながら、B先生は母にわたしたち三姉妹の将来を告げた。最後に生まれたエヴァはずっと「母親の胸にいちばん近いところ」にいる、二番目に生まれたエリカはいつも「中道を行く」、と告げたあと、B先生はわたしが姉たちにしてみせた仕草をまねしながらこういった。「この子についてはなんの心配もいらないね」
 翌日、地元の新聞は全紙をあげてキューブラー家の三つ子誕生を華々しく報じた。その見出しを読むまで、祖母は父がばかげた冗談をいっていると思っていた。祝宴は何日もつづいた。浮かれた雰囲気に鼻白んでいたのは兄ひとりだった。かわいい王子様だった日々はとつぜん終わりを告げ、気がつくとおむつの山の下敷きになったまま葬り去られていた。重い乳母車を押して丘をのぼり、三人の妹がおそろいの便器にまたがるのをながめていなければならなかった。後年、兄が家族から距離をとるようになったのは、そのときの疎外感が原因であることはまちがいない。
 わたしにとっても、三つ子であることは悪夢でしかなかった。もっとも憎む敵にさえみせたくないような悪夢だった。姉のふたりと自分とのちがいがわからなかった。三人ともそっくりだった。もらうプレゼントも同じだった。先生も同じ成績をつけた。公園を歩いていると、かならず「どの子がだれ?」と聞かれた。母でさえ区別がつかないときがあるといっていた。
 こころの重荷としてはかなりのものだった。わずか900グラムで生まれ落ち、育つ見込みがほとんどなかったことに加えて、子ども時代のすべての時間が「自分はだれか」を知ろうとする試みに費やされたのである。わたしはいつも、人の10倍の努力をして人より10倍も価値が……なにかの価値……生きる価値があることを示さなければ、と感じていた。それが毎日の責め苦だった。
 いまにしてようやく、それが責め苦ではなく祝福であったことがわかる。そうした苦境は、まだ社会にでるまえに、みずからが選びとっていたものだった。かならずしもよろこばしいものではなかったかもしれない。望んだものではなかったかもしれない。しかし、その経験こそがわたしに、待ち受けるできごとのすべてに立ち向かう勇気と決断力と耐久力をあたえてくれたのだ。

*註 欧米では多胎児の最初に生まれた子を末子、最後に生まれた子を長子とする。
 
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