第10章 蝶の謎

 人に愛と慈悲を語るわたしがいのちの意味にかんして最大の教訓を学んだのは、人間性にたいする最悪の暴虐がおこなわれたある場所をおとずれたときのことだった。
 ボランティアが建てた校舎の落成式に出席したあと、わたしはルシマを発った。そして、ヒトラーが各地につくった悪名高い死の工場のひとつ、マイダネックに向かった。どうしても強制収容所を自分の目に焼きつけておきたかったのだ。この目でみればなにかが理解できるかもしれないという気がしていた。
 マイダネックの悪評は知っていた。そこはあの母親が夫と二人の子どもを失ったところだった。そう、マイダネックのことは知りすぎるほど知っているつもりだった。
 しかし、実際にいってみると、なにかがちがっていた。
 その広大な敷地の門という門は破壊され、出入りは自由になっていた。だが、30万人以上が殺された陰惨な過去は、身も凍るような姿でその痕跡をはっきりととどめていた。鉄条網、監視塔、それに、男たち、女たち、子どもたち、家族たちが最後の時間をすごした殺風景な収容棟がそのまま残っていた。貨物列車が打ち捨てられていた。貨車の内部をのぞいてみた。ぞっとするような光景だった。ある貨車にはドイツに輸送され、冬季用の布地になるはずだった女性の毛髪が山と積まれていた。別の貨車には人びとがそれぞれの思いで肌身離さずもち歩いていた眼鏡、宝石、結婚指輪、装身具などが山積していた。子ども服、赤ん坊の靴、おもちゃが積まれている貨車もあった。
 貨車から降りると、身ぶるいが起こった。いのちとはこれほどまでに残酷になれるものなのか?
 まだ空中に漂うガス室の死臭、あのたとえようのない臭いが答えだった。
 でも、なぜ?
 どうやってそんなことが?
 想像もつかなかった。不信感で胸をつまらせながら、収容所を歩きまわった。そして自問した。「男も女も、どうしてこんなことができたのだろう?」建物に近づいていった。「確実におとずれる死をまえに、人はどのようにして、とくに母親と子どもたちはどんな心境で、最後の日々を生きていたのだろうか?」建物の内部には五段になった木製の狭い寝棚がぎっしりと並んでいた。壁には名前やイニシャル、いろいろな絵が彫りつけられていた。どんな道具を使ったのだろう? 石片か? 爪か? 近づいて子細にながめた。あちこちに同じイメージがくり返し描かれていることに気づいた。
 蝶だった。
 みると、いたるところに蝶が描かれていた。稚拙な絵もあった。細密に描かれたものもあった。マイダネック、ブーヘンヴァルト、ダッハウのようなおぞましい場所と蝶のイメージがそぐわないように思われた。しかし、建物は蝶だらけだった。別の建物に入った。やはり蝶がいた。「なぜなの?」わたしはつぶやいた。「なぜ蝶なの?」
 なにか特別な意味があることはたしかだった。なんだろう? それから25年間、わたしはその問いを問いつづけ、答えがみいだせない自分を憎んだものだった。
 建物から外にでた。のしかかるマイダネックの重みにつぶされそうだった。そこへの訪問が、じつは自分のライフワークへの準備であったことなど、気づくはずもなかった。そのときはただ、人間が他の人間にたいして、とりわけ無邪気な子どもたちにたいして、かくも残虐になれることの理由を理解したかっただけだった。
 そのとき、ひとり思いにふけっていた静寂が破られた。わたしの胸中の問いに答える、おだやかで自信に満ちた、若い女性の透きとおった声がすぐそばから聞こえた。近づいてきた声のもちぬしはゴルダという名前だった。
「あなたも、いざとなれば残虐になれるわ」ゴルダがいった。
 反論したかった。だが、衝撃のあまり、声にならなかった。「ナチス・ドイツで育てられたらね」ゴルダが追い打ちをかけてきた。
 大声で否認したかった。「わたしはちがうわ!」わたしは平和主義者だった。平和な国家で、良心的な家庭に生まれ育った。貧困も飢えも差別もなく育ってきた。ゴルダはわたしの目からそのすべてを読みとり、説き伏せるようにいった。「自分がどんなに残虐になれるものかがわかったら、きっとあなたは驚くでしょうね。ナチス・ドイツで育ったら、あなたも平気でこんなことをする人になれるのよ。ヒトラーはわたしたち全員のなかにいるの」
 議論する気はなかった。ただ理解したかった。ちょうど昼食どきだったので、ゴルダとサンドイッチを分けあって食べた。目もさめるような美しい女性で、年齢はわたしと同じぐらいにみえた。学校や職場で会っていたら、すぐにも友だちになっていたような人だった。昼食を食べながら、ゴルダはそれまでのいきさつを語ってくれた。
 ドイツで生まれたゴルダが12歳のとき、会社にいた父親がゲシュタポに拉致された。それが父親との永遠の別れだった。戦争が勃発するとすぐに、残された家族全員と祖父母がマイダネックに強制連行された。ある日、衛兵から行列にならぶように命令された。死出の旅へとつづく行列だった。ゴルダ一家は全裸にされ、ガス室に追いやられた。一家は悲鳴をあげ、嘆願し、叫び、祈った。しかし、一家には希望も尊厳も、生存へのチャンスもあたえられなかった。
 ガス室の扉が閉まり、ガスが噴射される直前に、衛兵は一家をむりやり扉の隙間からなかに押し入れた。ゴルダは一家の最後尾にならんでいた。奇蹟か、神の配慮か、扉はゴルダの目のまえで閉められた。扉のまえは全裸の人たちであふれていた。衛兵はその日の割り当てを早くこなすために、じゃまなゴルダを外につき飛ばした。ゴルダは死亡者リストに記載され、その名前を呼ぶ人はだれもいなくなった。めったにない見落としのおかげで、ゴルダのいのちは救われた。
 嘆いている暇はなかった。すべてのエネルギーが生存のために費やされた。ポーランドの冬の寒さに耐え、食べ物をみつけ、麻疹(はしか)どころか風邪にもかからないように警戒しなければならなかった。ガス室への連行を避けるために、地面や雪に穴を掘って、そこに隠れた。収容所が解放される場面を想像しては勇気をふるい起こした。生き残って、目撃してきた野蛮を未来の世代に伝えるために、神が自分を選んだのだと考えることにした。
「二度とできないわ」とゴルダはいった。筆舌につくしがたい冬の厳しさを、ゴルダは驚異的な忍耐力で生きぬいた。力がつきそうになると、目を閉じて、仲間だった少女たちの絶叫を呼び起こした。収容所の医師から実験用のモルモットにされた仲間、衛兵や医師に凌辱された仲間を思い返しては、自分にいい聞かせた。「生きて、世界中に伝えるのよ。あの人たちがやった非道をみんなに伝えるためには、どうしても生きのびなければならないの」連合軍が到着する日まで、ゴルダは憎悪をかきたてながら、生き残る決意を新たにしていた。
 収容所が解放され、門があけられたとき、ゴルダは怒りと悲しみのきわみで麻痺状態におちいっていた。せっかくの貴重な人生を憎しみの血へどを吐きながらすごすことが虚しく思えてきた。「ヒトラーと同じだわ」とゴルダがいった。「せっかく救われたいのちを、憎しみのたねをまきちらすことだけに使ったとしたら、わたしもヒトラーと変わらなくなる。憎しみの輪をひろげようとする哀れな犠牲者のひとりになるだけ。平和への道を探すためには、過去は過去に返すしかないのよ」
 マイダネックであたまに浮かんだ疑問のすべてにたいして、ゴルダはゴルダの流儀で答えてくれた。わたしはマイダネックにくるまで、人間の潜在的な凶暴性について、ほんとうにはわかっていなかった。だが、貨車に山積みされた赤ん坊の靴をながめ、微かなとばりのように空中に漂う死の異臭を嗅ぎさえすれば、人間がどれほど残虐になれるものかは容易にみてとれた。それにしても、あれほどの悲惨な経験をしながら憎しみを捨て、ゆるしと愛を選んだゴルダのことは、なんと説明すればいいのだろうか?
 ゴルダはその疑問にこういって答えてくれた。「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、わたしも生き残った甲斐があるというものよ」
 わたしは了解し、来たときとは別人になってマイダネックをあとにした。人生を最初から生きなおすような気分だった。
 医学校に入りたいという気持ちは変わらなかった。しかし、人生の目的はすでにきまっていた。未来の世代がもうひとりのヒトラーをつくりださないようにすること、それが目的だった。
 もちろん、まずは家に帰らなくてはならなかった。

 スイスへの帰途もそれまでの旅におとらず冒険の連続だった。帰るまえにロシアをのぞいてみたかった。毛布と着がえを二、三枚、それにポーランドの土の包みをリュックに詰めただけの、お金もビザもないひとり旅で、ピァウィストックをめざして歩きだした。人里離れた田舎道で日が暮れた。唯一の心配だった恐ろしいロシア軍がいる気配もなかったので、道端の草地で野営をすることにきめた。そのときほど深い孤独を感じたことはなかった。満天に輝く星のしたで、自分がひと粒の砂になったように感じた。
 だが、それもつかのまのことだった。毛布をひろげようとしていると、どこからともなく、色あざやかな服を何枚も重ねて着ぶくれた老女がぬっとあらわれた。ありったけのスカーフや宝石類を身にまとっているようにみえ、なんとも場ちがいな感じがした。なるほどそこは、暗闇と神秘に満ちたロシアの田園地帯だった。わたしにはほとんど理解できないロシア語で、老女は「トランプ占いをしてやろう」といっているようだった。物乞いにちがいないと思った。占いの申し出を辞退して、かたことのポーランド語とロシア語、それに手まねで、必要なのは味方になってくれる人と安全に夜をすごせる場所であることを伝えた。この人は味方になってくれるだろうか?
 老女はほほえみながら、当然のことのようにいった。「それならジプシーのキャンプしかないさ」
 それからの四日間は歌と踊りと友情に満ちた、忘れがたい日々になった。出発するまえに、わたしはジプシーたちにスイスのフォークソングを教えた。リュックサックを背負い、ポーランドへとつづく道を歩きだすと、ジプシーたちは陽気にその曲を演奏して見送ってくれた。夜の闇のなかで出あった、まったく見知らぬ者同士が、ことばはつうじなくても愛と音楽でつながりあい、ごく短期間にこころを通わせあって、兄弟姉妹のように深い関係になれたのだと思うと、自然に涙がにじんできた。戦争が終われば世界はおのずから傷を癒す。前途に一条の光が差しこんだような気がした。
 ワルシャワにもどると、VIPをベルリンまで乗せていくアメリカ軍用機の座席を、クエーカー教徒たちが確保してくれた。ベルリンからは汽車でチューリッヒに帰るつもりだった。家族にあてて帰宅を告げる電報を打った。「夕食にまにあうように」と書きながら、母のおいしい手料理とふわふわのベッドで眠ることを考えて胸がときめいた。
 しかし、ベルリンは予想に反して危険なところだった。ロシア軍が、正式な証明書をもたない者にたいして市街の占領地――のちに東ベルリンとなった地区――から西側のイギリス占領地にいくことを禁じていたのである。夜になると、市街から人影が消えた。ほんの短期間でも脱出したいと願う人たちが物陰に息をひそめ、おびえながらチャンスをうかがっていた。見知らぬ人に助けられて、わたしも国境の検問所までたどり着いた。そこで何時間も立ちつづけた。疲れきり、空腹で胃が痛くなった。独力では脱出できないとわかると、こんどはイギリス人将校の説得にかかった。その将校は縦横が60センチと90センチの小さな木箱にわたしを隠し入れ、トラックでヒルデスハイムにほど近い安全地帯まで運んでくれるといった。
 8時間というもの、わたしは胎児のような姿勢に身を縮めたまま、木箱の蓋に釘を打つまえに将校からあたえられた思わせぶりな警告だけを反芻していた。「お願いだ。音を立てないでくれ。咳をしてはいかん。この蓋を開けるまでは、ため息ひとつ、ついちゃいかんぞ」トラックがとまるたびに、わたしは息をとめた。指一本でも動かしたらおしまいだという気がしていた。ついに蓋がはずされたとき、まぶしさで目がくらんだのを覚えている。あれほどまぶしい光はみたことがなかった。安堵とよろこびが一度に襲ってきた。手を貸して箱からぬけださせてくれた将校の顔をみたとき、急に吐き気をもよおし、全身の力がぬけてへなへなと崩れ落ちた。
 おんぶに抱っこで、将校クラブ酒保での豪華な食事にありついたあと、家に向かってヒッチハイクの旅をはじめた。夜になり、共同墓地に毛布をひろげて眠った。翌朝、目がさめると病状が悪化していた。食料も薬もなかった。横になったままリュックサックをまさぐった。ポーランドの土が入った包みがでてきた。毛布をのぞけば、それが盗まれなかった唯一のものだった。これさえあればだいじょうぶだという気がして
きた。
 立ちあがろうとした。耐えがたい痛みに襲われ、思わず座りこんだ。なんとか起きあがり、4、5時間も歩いたが、とうとう深い森のそばの草原でたおれてしまった。病状がひじょうに悪いことはわかっていたが、祈る以外にできることはなにもなかった。高熱で発汗し、胃も完全にからっぽだった。意識がぼんやりしてきた。譫妄(せんもう)状態のなかで、最近経験したルシマの診療所やマイダネックの蝶やゴルダという娘の顔が切れ切れによぎった。
 ああ、ゴルダ。なんて高貴な。なんて強い……。
 目をあけると、ひとりの少女が自転車に乗って走りながらサンドイッチを食べているのがみえたような気がした。空腹で胃がきりきりと痛んだ。一瞬、あの子の手からサンドイッチを奪おうと考えた。少女が現実なのか幻覚なのかはわからなかった。だが、その瞬間、わたしはたしかにそう考えた。ゴルダのことばが聞こえた。「ヒトラーはわたしたち全員のなかにいるの」ようやくわかった。人は状況しだいで変わるのだ。
 そのときは、状況がわたしに味方してくれた。薪を拾いにきた貧しい女性が、泥のように眠りこんでいるわたしをみつけてくれたのだ。わたしは荷車でヒルデスハイムの近くにあるドイツの病院に運ばれた。一週間ほど、意識と無意識のあいだを漂っていた。意識があるときに、腸チフスの流行でたくさんの女性が死んでいるという会話が聞こえてきた。自分もその疫病にかかっているらしいと悟り、鉛筆と紙をもってきた。
 だが、鉛筆をもつだけの力がなかった。同室の患者やナースに代筆をたのんだが、断られた。連中はわたしをポーランド人だと思っていた。それは40年後に目撃するはめになった、エイズ患者にたいする偏見と同じ種類のものだった。「ポーランドの豚は死ねばいいのさ」連中は吐き捨てるようにそういった。
 そうした偏見がわたしを死の淵まで追いやった。その日の夜中に心臓痙攣が起こったが、「ポーランド娘」を助けようという人はいなかった。33キロにまでやせ細ったわたしのからだにはたたかう力が残っていなかった。ベッドのうえで折れ曲がった姿勢のまま、わたしは意識を失った。幸いなことに、当直の医師がヒポクラテスの誓いをまもってくれた。手遅れになるまえに、強心剤のストロファンチンを注射してくれたのだ。翌朝は、ルシマを発って以来の爽快さを感じた。頬に赤みがもどってきた。上半身を起こして朝食を食べた。回診にきた医師があいさつをした。「きょうはどうかね、スイスのお嬢ちゃん?」スイスだって? ナースと同室の患者たちは、わたしがポーランド人ではなくスイス人だとわかると態度を一変させた。とつぜん、うんざりするほど親切になったのだ。
 そんな連中に用はなかった。それから数週間、休養と栄養を満たして退院した。だが、もちろんそのまえに、差別主義者の患者とナースたちにポーランドの土をみせ、わたしがそれをたいせつにしている理由をいって聞かせた。「わかる?」とわたしは説明した。「ポーランドの子どもの母親もドイツの子どもの母親も、ちがいなんかあるもんですか!」
 チューリッヒに向かう列車のなかで、わたしはこの8か月間に受けた信じがたい教育について考えていた。出発したときよりも賢く、おとなになって家に帰り着くことは確実だった。列車のゆれる音を聞きながら、わたしは早くも自分が家族に報告している声を聞いていた。壁に刻まれた蝶、内なるヒトラーについて教えてくれたポーランド系ユダヤ人の娘、ことばや国籍をこえた愛と友情について教えてくれたロシアのジプシーたち、病院に運んでくれた、名前も知らない薪拾いの貧しい女性……。
 その夜、夕食のテーブルで、わたしはみてきた悲惨のすべてについて、それより多くの希望をもつべき理由について、母と父に話をした。
 
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