歴史から消された
日本人の美徳 
 黄文雄・著 青春出版社 2004年刊

 予言された「強大な国家」としての日本

 大航海時代に日本を訪れた宣教師たちの記録に、日本人の知性や道徳は世界最高であると、書かれている。当時は戦国時代、天下分け目の戦いを展開しているさなかであった。その乱世のなかでも、日本人の振る舞いが礼儀正しく、徳の高いものであることに驚嘆してイエズス会に報告の文書を書き送っている。
 1549年(天文18)、8月15日に鹿児島に上陸したスペイン人イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルは、ゴアのサン・パウロにいたコレジョ修道士宛の書簡のなかでこう述べている。
 「此の国の人は礼儀を重んじ、一般に善良にして悪人を攘(ゆず)らず、何よりも名誉を大切にすることは驚くべきことなり」
 「俗人の間には罪悪少なく、また道理に従ふことは坊主と称するパードレ(神父)及び祭司に勝れり」
 また、ザビエルに同行したパードレ・コスメ・デ・ドレスが布教地の山口からスペインのバレンシアのイエズス会士に宛てた書簡にも同様の記述がある。「日本人はきわめて理知的であり、道理によって身を処することはスペイン人に劣らず、あるいはそれ以上である」と、褒め讃えている。当時の日本人の教養と徳性が、世界中を伝道していた西洋知識人を驚かせたのだ。
 日本では古代より質の高い社会を形成していた。16世紀のスペイン伝道師の記述を待つまでもなく、三世紀に書かれた『魏志倭人伝』(正確には『三国志』・「魂書」の東夷伝)には、「窃盗せず、訴訟少なし」という記述があり、穏健で徳性ある社会を営んでいたことがうかがわれる。
 中国は当時から強盗の国であった。山に山賊がいないところはなく、湖に匪がいないところがない、という匪賊がやり放題の「梁山泊」の国情があった。その国の人間が「泥棒がいない」と倭の国について、これまた驚いて記録に残したのである。
 道義、儀礼に厚い国として、西洋人伝道師が見た日本は、その後徳川幕府の下、三百年近くにわたる天下太平の時代を経て、さらに礼儀、道義の邦(くに)として成熟していった。
 1856年(安政3)、下田に来航したアメリカの初代駐日公使ハリスは『日本駐剳(ちゅうさつ)日記』に、永年鎖国下にあった日本の、開国後の姿について、「日本の国民にその器用さと勤勉さを行使することを許しさえすれば、日本はやがて偉大な、強力な国家となるであろう」と予言した。
 アメリカ人が通商を求めて来航する少し前、1811年(文化8)に、ロシア軍人ゴローニンが部下とどもに国後島において蝦夷松前奉行に捕らえられ、その後2年3カ月にわたり箱館で幽閉された。その際の抑留経験を綴った『日本幽囚記』で、日本人の心優しさを綴っている。このゴローニンの釈放に力を尽くしたのが海商の高田屋嘉兵衛である。
 『日本幽囚記』はその後ロシアをはじめヨーロッパ各地で出版され、日本人の高潔さがヨーロッパに知れわたることになった。この『日本幽囚記』に感動して、日本での伝道活動を決意したロシア人宣教師二コライも、日本人について「上は武士から下は町人に至るまで、礼儀正しく弱いものを助ける美しい心をもっている。忠義と孝行が尊ばれ、これほど精神の美しさをもつ民族は見たことがない」と絶賛している。
 魯迅がいう「打落水狗」という弱者いじめ、弱みにつけこむ中国人根性とはまったく違う国民性である。
 日本人は歴史的に見ても、道理、すなわち人の取るべき道について敏感であった。道理がどのように、人々に説かれていたか、源平の合戦をつぶさに描いた『平家物語』にその一端を見ることができる。
 『平家物語』では、全編を通じて、武士たちがいかに道理や義を重んじるかを描いているが、なかでも平清盛の長男、重盛を通じて、当時の道義心のあり方を見事に描き出している。『平家物語・巻第二』の「教訓状」のくだりを見てみよう。
 重盛は、父清盛が後白河法皇に裏切られたことに怒り、謀反を起こそうとしたとき、父に向かって道理を説く。
 重盛はまず、聖徳太子の憲法十七条の第十条を引用する。第十条の大意とは「人にはそれぞれ思うところがあり、その是非を言いつのっても仕方がない。そのときは自分が罪を犯さぬように身を処すべきだ」というものだ。
 その上で重盛は、父に向かって、仏教の四恩の一つである国王への恩を忘れるな、恩を裏切る罪を犯すな、と説く。そして最後に「神明仏陀感応あらば、君もおぼしめしなす事、などか候はざるべき。君と臣とならぶるに、親疎わくかたなし。道理と僻事をならべんに、いかでか道理につかざるべき」と、自分は血縁のある父ではなく「道理」を選ぶ、道理を守れば神仏の加護があるはずだと言明して、清盛の謀反を押しとどめたのだ。
 『平家物語』は当時最高の知識人である僧侶たちによって書かれたもので、作者は、この重盛のとうとうたる弁舌のなかに、神への信仰、仏への帰依とその教えとする道理を、くまなく盛り込んでいる。文芸による宗教書とも読める一大巨編である。
 また、一人ひとりの武士が戦いのなかで苦悩し、そのなかから理想とする生き方をどう求めたのかについても、余すところなく描かれている。
 平安末期から、仏僧たちは、貴族など限られた階級の人間だけを対象とする奈良仏教に反旗を翻し、一般大衆への教化を強力に推し進めはじめる。鎌倉時代になると親鸞、道元、栄西、日蓮、一遍など高僧が輩出し、仏教は一挙に一般大衆にも浸透しはじめる。
 道元は仏法の道理を分かりやすく説くための『正法眼蔵』を著し、また弟子たちが道元の言葉を記した『正法眼蔵随聞記』などによって、一般民衆にも、道理・道徳の考え方が広まっていった。
 日蓮もまた「仏法と申すは道理なり」と、広く一般大衆に、いかに生きるべきかを説いた。
 
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