ひふみ神示(日月神示)A
なわ・ふみひとの超解釈

 学問や金を頼っていては改心できない

●金で世を治めて、金で潰して、地固めしてみろくの世と致すのぢゃ。(黄金の巻・第59帖)

●学問や金を頼っているうちは、まだまだ改心出来ないぞ。(黄金の巻・第82帖)

 「金で世を治めて」というのはこの資本主義社会の秩序がお金を中心に組み立てられていることを表現したものです。次はそのお金で「この世を潰す」と述べられています。形としては、世界大恐慌ということになるはずです。お金を持っていてもどうにもならない社会が生まれるということです。一番困るのは、お金に生活と心を支配されている人ということになります。
 「お金持ちが神の国の住民になるのは、らくだが針の穴を通るよりも難しい」というイエスの言葉とも相通じるものがあります。
 この世での幸せを、持っているお金の額で測るのでなく、お金がなくても十分幸せを感じることのできる人が、やがて訪れる神の国の住民に相応しい人ということになります。

●身魂磨きとは、善いと感じたこと直ちに行なうことぞ。(黄金の巻・第67帖)

 これは親子の関係に置き換えて考えるとわかりやすいと思います。親が子供のためを思って、いろいろと正しいことを教えても、それを子供が実行しなければ間違った方向に進んでしまうことになります。あるいは、時間が迫ってきて間に合わなくなるということもあるでしょう。
 この「親」に当たるのが神様(守護神)であり、「子」が私たち人間というふうに置き換えれば、神様から繊細な波長で送られてくるメッセージ(善いと感じること)をすぐに実行に移してほしいと思うのは親心と同じでしょう。しかしながら、そのような微弱な神の波長は、低級霊の憑依のような強制力がないので、人は善いと思ったこともなかなか行動に移さないものです。
善いことを行動に移させないように低級霊が干渉する(=「一本の誘惑」がある)ためでもあります。ひふみ神示(日月神示)の神様の嘆きの声が聞こえませんか。

●めぐりと申すのは、自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。(黄金の巻・第77帖)

 めぐりは「自分が蒔いた種を刈り取る」ということであって、他人や世の中のせいにできないのは言うまでもありません。

●先祖は肉体人を土台として修行するぞ。めぐりだけの行をせねばならん。(黄金の巻・第78帖)

 「親の因果が子に報う」という諺もあるように、肉体を失って霊界にいる先祖の霊は、縁ある子孫の守護霊や背後霊となって身魂磨きをしているのです。そういう意味では、いま終末の時代に肉体を持って人生修行をしている私たちの責任は重大なのです。

●損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによってめぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済ましぞ。世界のめぐり大きいぞ。(黄金の巻・第83帖)

 経済的な損失も、病気や怪我などの不運と思われる出来事も、すべて悪いカルマが発散されていることの現れですから、それはありがたいと思うべきなのです。終末の時代を迎えている今、私たちはもはや生まれ変わって始める次の人生はありませんので、この人生で「借銭済まし(=カルマの清算)」をしなければならないのです。「世界のカルマ」の清算は、経済の大恐慌や大天変地異となる可能性大と思われます。その覚悟は必要でしょう。

●他のために行ぜよ。神は無理は申さん。初めは子のためでもよい。親のためでもよい。自分以外の者のために、まず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さしそめるぞ。(黄金の巻・第93帖)

 「与えたものが返ってくる」というのが宇宙の法則です。まずは自分の身近な存在からでも、「利他(奉仕)」の行為の実践を始めなさいということです。新約聖書やシルバー・バーチの霊言にも全く同じ内容が述べられています。

●生命捨ててかからねば、まことの理解には入れん道理。身慾信心では駄目。いのち捨てねば生命に生きられん道理。(黄金の巻・第97帖)

 「身慾信心」とは「現世利益を求める心」という意味です。この世での幸せを追い求め、財産や地位などに執着する「我善し」の気持ちでは、神の国の住人に必要な「まことの理解」は得られないということです。新約聖書にも、これと全く同じ趣旨のことがイエスの言葉として次のように述べられています。

 
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイによる福音書)

 「あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」(マタイによる福音書)

 「世が改まって、人の子が栄光の座につく時には、(中略)わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍をも受け、また永遠の生命を受け継ぐであろう」(マタイによる福音書)

●悪も神の御働きと申すもの。悪にくむこと悪じゃ。(黄金の巻・第97帖)

 「悪」とは「自分や世の中に対して害を及ぼしている存在」と考えたらよいでしょう。そういう存在を憎んだり、そのことによって心を曇らせることは、結果として善くない波動をこの宇宙に発信することになります。つまり「悪」の波動に同調して、自らも「悪」を演ずることになってしまうのです。「悪」と見えることもすべて神様の手のひらの上での出来事と考えて、心を曇らせないことが大切だと教えてくれています。

●日々の祈りは行であるぞ。百年祈り続けても、祈りだけでは何もならん。それは祈り地獄じゃ。祈り地獄多いのう。肉体人は肉体の行せねばならん。(黄金の巻・第100帖)

 「肉体の行」というのは、「この世での人生体験を通じて学ぶ」ということです。神頼みだけをしていても駄目だと戒めています。現在の人生を毎日しっかり生きることが「祈り」そのものだ、と教えています。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]