山本五十六は生きていた
ヤコブ・モルガン・著 第一企画出版
 1995年刊
 
A
米国のために重大な役割を果たした山本五十六

 骨の髄まで親米派のフリーメーソン


 山本五十六は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉蔵院町に六男として生まれた。父・高野貞吉はすでに56歳に達していたので「五十六」と命名されたという。山本姓を名のるのは少佐時代の33歳のときに山本家の養子となってからである。
 
 大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より2期上の米内光政と交誼を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人はことごとく波長が合ったと言われるが、のちに米内海軍大臣、山本次官のコンビで、陸軍がすすめる三国同盟に真っ向から反対することになる。
 大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。
 大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。
 大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。
 山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。

 空軍の重要性を熟知しながら設立を拒否 [TOP]

 山本五十六は戦術兵器としての戦闘機改良には大いに貢献したと言えるが、海軍の航空化には賛成しても、空軍の独立には一貫して反対であった。
 イギリスではすでに大正7年(1918年)に空軍を独立、ドイツでもナチス政権が昭和10年(1940年)には空軍を創設していた。
 あれほど航空戦力を重視した五十六に、空軍独立の必要性と重要性がわからなかったはずはない。山本五十六は意図的に日本空軍の創設を拒んだのである。
 その狙いは2つあった。1つは、日本が独立した空軍を持つことで(米英軍に対して)戦略的な優位に立つことを恐れたからであり、もう1つは、来たるべき対米戦で真珠湾攻撃を行なう際に、すべての航空戦力を自分の指揮下に置いておくためであった。
 日本の航空戦力を海軍の補助戦力として位置づけることによって、日本は確実にアメリカよりは劣勢でいることができる。フリーメーソンの山本五十六はそのように考えたに違いない。
 海軍大学校教官・加来止男中佐(のちに空母「飛龍」艦長。ミッドウエー海戦で艦と運命をともにした)と陸軍大学校教官・青木少佐は連名で、陸・海大学校長あてに空軍独立の意見書を提出するが、山本五十六を本部長とする海軍航空本部はこれに対して、正式に空軍独立反対を表明するのである。

 真珠湾奇襲攻撃でルーズヴェルトに協力 [TOP]

 連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦はもはや避けられないものとして、いつの間にか真珠湾攻撃を口にするようになる。
 欧州ではすでに昭和14年(1939年)9月3日、第2次世界大戦が勃発してドイツが破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激昂させ、その怒りで対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。
 フリーメーソン山本五十六はルーズヴェルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲攻撃の構想を練ったのである。
 山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年あまり経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの雷撃訓練が行なわれた。五十六の計画の中には、すでに機動部隊による真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。
 ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行なわれた。こうして訓練に訓練を重ねた第一航空艦隊(空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将)は択捉島単冠(ひとかっぷ)湾に集結、昭和16年(1941年)11月26日、秘かにハワイに向けて出航した。日本時間12月8日午前3時25分、6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機は、ハワイ・オアフ島パール・ハーバーにあるアメリカ太平洋艦隊の基地を奇襲した。
 アメリカ大統領ルーズヴェルトはこの奇襲攻撃を事前に知っていた。日本の外務省が使用していた「紫暗号(パープル)」はアメリカに筒抜けであったが、この裏には日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。
  真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。
 不思議なことに空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガはアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。
 被害を受けた戦艦はいずれも1910〜1920年代に就役した旧式艦であり、しかも攻撃し易いようにわざわざ真珠湾に沿って一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。
 こうしてみると真珠湾攻撃というのは一種の茶番劇であったことがわかる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」により英雄視されているが、その結果残ったものは「日本の卑怯な騙し討ち」という非難と、アメリカの対日積極参戦の意識高揚、そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。この時死んだアメリカ兵2,403名は今でもアメリカ人にとって対日憎悪の原因となっている。

 最後通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世 [TOP]

 真珠湾攻撃にはいくつかの不可解なことが起こっている。ひとつは宣戦布告の通知が遅れたこと、そしてもうひとつは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては、これは最初からそう仕組まれたものであったと言うほかはない。
 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合うものであった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日午後1時に行なうものであった。ところが野村、来栖大使が実際にそれをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、その時真珠湾はすでに猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交がなぜ遅れたかについてはもっともらしい説明がつけられている。
 対米最後通牒の電報は14通から成り、その内の13通はアメリカ時間の12月6日中に日本大使館に到着し、すでに電信課によって暗号解読され、その日のうちに書記官に提出されていた。残り、すなわち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。
 その時の大使館の様子は次の如くであったとされる。

●14通の電報は2種類の暗号を重ねたニ重暗号であり、最初の13通は12月6日午後1時から入電を開始、ほぼ同時に専門の電信官によって暗号解読が始まった。午後8時半頃事務総括の井口貞夫参事官が解読作業中の若手外交官たちを誘って行きつけの中華料理店の一室で夕食会を開く。これは寺崎英成一等書記官の中南米転任送別会をかねていた。

●7日、早朝13通分の電文タイプを開始。寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、および妻の母とともに郊外にドライブ、連絡もつかない状況であった。

●7日の朝、大使館の電信課宿直員で若い熱心なクリスチャン藤山猶一は14通目の電報ともう1通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入手したが、その日は日曜日であったため、教会の礼拝に出かけ、電信課の責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官および松平康東一等書記官に対し連絡を怠った。


 14通目の電報の暗号解読が7日の何時から始められたかの公式記録はない。だが前日に受信した13通の電報がすでに解読されており、事の重大性に大使館全員が気づかないはずはない。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、それ以前の13通分についても事前にタイプを済ませて、いつでもハル国務長官に提出できるようにしておくのが当然であったろう。
 だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半頃からであり、14通目の暗号解読が終わったと推定される午前10時頃までは奥村一等書記官によるのんびりしたペースであった。ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時開が午後1時であることがわかり、大使館は騒然となった。だが日本の外務省から秘密保持のためタイピストを使わぬよう指示されていた日本大使館では、慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、来栖大使が手交したのは1時55分であった。
 この外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむものである。
 まず外務省であるが、わずか残り数行にすぎない14通目と最後通牒文である電報を、なぜわざわざそれまでの13通よりはるかに遅れて発信したのか。さらにこの重要な時期になぜ寺崎一等書記官を転任させる処置をとったのか。またなぜ秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか――などである。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が、まるで事の重大性をわきまえぬ無神経かつ怠慢な動きをとっていることだ。これは一体何を物語るものであろうか。答は2つ。外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、さもなくば確信犯であったということである。おそらく真相は後者であろう。
 戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が、帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒手交遅延の責任を明らかにするよう進言したが、吉田は結局この件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶のひとりフリーメーソンであった。当時の日本大使館員たちは戦後いずれも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。
  日米開戦の最後通牒が遅れ、真珠湾攻撃が卑怯な騙し討ちになったことで、アメリカ人の世論は開戦派が以前の3%から90%にはね上がっている。日本外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。

 不徹底な攻撃で米国を助ける [TOP]

 ところで「攻撃の不徹底」であるがそれには2つの意味がある。
 ひとつは真珠湾上のアメリカ海軍艦船に対するものであり、もうひとつはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。
 真珠湾攻撃で受けたアメリカ太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された程大きなものではなかった。戦艦8隻のうちアリゾナとオクラホマを除き残りの6隻はその後すべて水深15メートルという浅い海底から引き上げられ、修理されて、いずれも戦線へ復帰して大活躍しているのである。
 また陸上施設については南雲第一航空艦隊司令長官による第1次、第2次攻撃隊は全く手を触れておらず、第3次攻撃隊を出すことも中止している。第3次攻撃に関してはほとんどの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第11航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第3波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀はおろか、はるか後方の旗艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官までがその必要性を認めていないのである。
 もし、この時第3次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯蔵庫、さらにはアメリカ海軍基地の補給、修理施設、工場群、燃料タソク群を破壊しておれば、太平洋の戦局は大いに変わったものとなったであろう。
 ハワイがアメリカの太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であったことを考えるならば、この攻撃不徹底はいかにも奇異なものであると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯蔵されていた重油450万バレルを爆撃しておれば、アメリカ本土からの補給は数カ月間にわたって不可能となり、アメリカの太平洋艦隊は身動きがとれなかったのである。
 さらにもうひとつつけ加えるならば、ハワイ攻撃の日がなぜ12月8日であったかということだ。もちろん日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上この日になったというのはひとつの説明であるが、山本長官が、この日は真珠湾にアメリカ空母がいないことをあらかじめ知っていたからであろう。
 山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初からなかった。日本がアメリカを奇襲攻撃し、「卑怯な日本」という既成事実をつくればそれでよかったのである。
 (つづく)
 
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