山本五十六は生きていた
ヤコブ・モルガン・著 第一企画出版
 1995年刊
 
B
日本兵を大量にムダ死にさせた山本の作戦

 日本の連合艦隊の撃滅が山本の目的
 

 昭和17年5月、帝国陸海軍はニューギニア進攻作戦を実行する。この作戦の主目的はニューギニアのポートモレスビーを攻略して強固な前進基地を構築し、アメリカとオーストラリアの分断を計り、オーストラリアを孤立させることだった。
 この頃、大本営では陸海軍の戦略思想の対立が再び深刻化、陸・海軍省および参謀本部・軍全部で戦争指導計画の再検討が行なわれ、「今後採ルペキ戦闘指導ノ大綱」が妥協によって3月7日に成立した。そして「戦況の許す限り、できるだけ早く占領あるいは撃滅する必要のある地域」として次の3部に分けられた。

(1) ソロモン諸島のツラギ、およびニューギニア南岸のポートモレスビーの基地を占領し、珊瑚海とオーストラリア北部の支配権を確立する。

(2) ハワイ北西の太平洋上に広がるミッドウェー環礁を一挙に水陸両面作戦により襲撃する。

(3) フィジー、サモア、ニューカレドニアを結ぶ線を確保し、アメリカ合衆国とオーストラリアとの直接連絡路を断つ。


 このうち(1)と(2)は山本長官の発案だった。計画(1)の暗号名は「MO」、計画(2)は「MI」とされ、この2作戦が失敗した場合、計画(3)は中止するというものだった。こうして先ず「MO」作戦が山本長官の強い意志で実行されたのであるが、その真の意図は、この作戦によりアメリカ太平洋艦隊をこの海域におびき出して決戦を挑み、日本の連合艦隊を撃滅させることだった。
 驚くなかれ、山本長官の狙いはアメリカの太平洋艦隊を撃破することではなく、その逆だったのである。ニューギニア進攻作戦そのものは米豪連合軍の激しい反撃に遭って挫折、ポートモレスビーの陸路進攻も失敗するが、海路からこの地を攻略するため井上成美中将の指揮する第四艦隊は、珊瑚海において5月7日、8日の両日、アメリカ太平洋艦隊(司令長官チェスター・W・ニミッツ大将)と激突するのである。
 この海戦で日米はほぼ互角のたたき合いとなり、7日の戦闘で日本側は空母「祥胤」1隻を失い、米側は駆逐艦と油槽艦各1隻、続いて8日は日本側は空母「翔鶴」が被弾、米側は空母「レキシソトン」が沈没、「ヨーククウン」は大破した。
 ところがこの時、井上中将はなぜか「ヨークタウン」にとどめをさすことをせず、攻撃を中止して北上するのである。この「ヨーククウン」がハワイの海軍基地に帰り、わずか2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、あの連合艦隊撃滅の立役者となるのである。
 この珊瑚海海戦で井上成美第四艦隊司令長官の果たした役割は一体何であろうか。それは「手ぬるい攻撃」によって引き起こされた戦術的勝利・戦略的大敗北に他ならない。
 しかも真珠湾攻撃同様、暗号はことごとく米軍によって解読されていた。ニミッツによる空母2隻の急派も日本海軍のMO作戦をすべて事前に知っていたからであった。結果として日本軍はポートモレスビーの攻略に失敗、南太平洋の戦局は厳しいものとなり、日本軍の限界を示すものとなった。

 なぜ暗号が米軍に筒抜けになるか [TOP]

 こうしてミッドウェー攻略作戦は陽動作戦であるアリューシャン作戦とともに陸海軍の合同兵力で推進されることになった。ミッドウェーは太平洋上の最西端に位置する拠点であった。日本にとってもこの地点を攻略することにより東京空襲の阻止はもちろんハワイの再爆撃も可能であった。当然この作戦は秘密裡に、しかも迅速に遂行されねばならなかった。
 ところが日本海軍が用いていた暗号はことごとくアメリカの暗号解読班によって傍受され、その全容はアメリカ海軍首脳部に筒抜けであった。日本海軍は秘密保持のため「JN25暗号」を定期的に変更すべきところを怠ったのである。
 本来、変更は4月1日の予定であった。これが5月1日に延期され、さらに戦闘開始直前の5月28日まで再延期された。このおかけで米暗号解読班は「JN25」を完全に解読するチャンスを得たのである。
 この暗号解読により日本軍が画策したアリューシャン列島への陽動作戦は全く用をなさず、始まる前からアメリカ軍にはわかっていたので、ニミッツは全力をミッドウェーに投入するために迅速な手を打った。6月4目の海戦に備えてフレッチャー少将の率いる第17機動部隊(空母「ヨークタウン」など)は日本軍に悟られることなく絶好の位置に待ち伏せすることができた。
 山本長官は暗号の変更を延ばし延ばしにし、アメリカ側に「MI作戦」の全貌を知らせた上で日本海軍の総力を投入し、その壊滅を策謀したのである。ミッドウェー作戦には、無能であり、しくじることがわかっている南雲忠一中将や草鹿龍之助少将を最も重要な機動部隊に起用し、自らは後方400キロの北西海上で旗艦「大和」や戦艦「長門」「陸奥」などとともに主力部隊にとどまり、これまた高見の見物をしていたのである。
 米太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツは珊瑚海海戦で空母「レキシントン」を失い「ヨークタウン」を大破された第17機動部隊司令長官J・フレッチャー少将をハワイに急遽呼び戻し、さらに珊瑚海海戦に間に合わず無疵でいたハルゼー中将率いる第16機動部隊を合衆国艦隊司令長官E・J・キングの反対を押し切ってミッドウェーに急派、司令長官をハルゼーからレイモンド・A・スプルーアンスに交替させた上で空母「エンタープライズ」と「ホーネット」の2隻を投入した。
 ミッドウェー海戦に投入された空母3隻のうち「エンタープライズ」は、真珠湾攻撃のときに取り逃がした空母のうちの1隻だった。

 山本長官は常に後方で高見の見物 [TOP]

 この時点において日本側は「ヨークタウン」「レキシントン」の空母2隻は珊瑚海で沈没、「エンタープライズ」「ホーネット」もはるか南方海域にいるはずと固く信じていた。
 日本側は連合艦隊始まって以来の大艦隊を編成。山本長官の指揮下には空母8隻、「大和」、「武蔵」など戦艦11隻、巡洋艦22隻、駆逐艦65隻、潜水艦20隻など合わせて艦船200隻、総トン数150万トン、さらに飛行機700機を含めて動員数10万人の将兵という堂々たる陣容を形成した。
 これだけの大戦力を持ちながらミッドウェー海戦で日本側は大敗北を喫してしまった。この海戦で日本は虎の子の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を一度に失ったのである。アメリカ側の損害は空母「ヨークタウン」1隻にとどまった。このような大敗北は全く予期せざるものであった。
 日本は勝てる戦争を敗れるべくして敗れたのである。敗北の「大原因」すなわち戦略的失敗をもたらしたのは山本五十六であり、それは意図されたものだった。いくつかの予期せざる偶然、悪運が重なったとはいうものの、戦術的「大失策」を犯したのは南雲機動部隊司令長官だった。南雲は刻々と変化する戦況を的確に判断することができず、逡巡し、誤った判断を下した。本来の目的であったミッドウェー島の基地爆撃も、上陸も果たせず、アメリカの艦隊撃破にも失敗した。
 南雲の指揮した空母では帰投して上空で着艦を待つミッドウェー攻撃隊の収容と、第2次攻撃のための爆弾および敵空母攻撃のための魚雷換装をめぐって判断が遅れ、結果的に米艦隊の猛攻を受けて次々と沈没したのである。
 かろうじて山口多聞少将率いる空母「飛龍」が攻撃機を飛ばし米空母「ヨークタウン」に甚大な損害を与えた。6月7日、ハワイに向けて曳航中の「ヨークタウン」を日本の潜水艦が撃沈した。
 ミッドウェーで山本長官がなぜ空母部隊のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたのかは一種の謎であった。空母を中心とする機動部隊本務はそもそも制空権の獲得であり、敵機動部隊の撃破もその一環であるが、逆に攻撃を受けた時には艦隊防御能力は極めて低い。日本海軍の誇る戦艦「大和」「武蔵」「長門」など高い防御能力を持った戦艦群ははるか後方にあって、連合艦隊司令部の護衛などという戦略的に無意味な任務に就いていた。
 機動部隊の空母を防御していたのは駆逐艦など数隻であり、その陣容にも大いに問題があった。米機動部隊の陣形が空母中心におよそ1.5qの距離を保ち、1隻ごとに巡洋艦、駆逐艦を多数配置して輪陣を組み空母上空に濃密なる弾幕を張り、防御能力を最大限に高めていたのに対して、日本の空母は2隻並んでいる上にわずかの駆逐艦を横に配置しているだけであった。これでは空母に対する防御が手薄であり、米機にとっていかにも攻撃しやすい陣形になっていた。
 珊瑚海海戦で軽空母「祥鳳」が撃沈、「翔鶴」が大破するという苦渋を味わったのもこの艦隊防空能力の欠如であった。連合艦隊は1カ月前の苦い教訓を生かすことができなかったのだ。
 日本側が機動部隊に充分な対空防御能力をつけておれば、敵機襲撃に対しても時間的余裕が生まれ、空母での攻撃機兵装を大急ぎで取り替えるという混乱は起こり得なかったであろう。
 だが山本長官個人を守るために温存された強力な戦力はついに一度も投入されることなく、大事な空母を米機の攻撃にさらし、海の藻屑と消えさせたのであった。

 真珠湾もミッドウェーも山本が強引に決行 [TOP]

 真珠湾攻撃のときもそうであったが、ミッドウェー攻略作戦もまた山本長官の強引な主張によって計画されたものであった。山本長官の主張とは「昭和17年(1941年)中に米太平洋艦隊をおびき出してこれを撃滅する。そのためのエサとしてはミッドウェーが最適であり、ここを占領してハワイに脅威を与えればアメリカの戦意は著しく衰え、それによって和平交渉への道が開かれる」というものであった。
 だがこの計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。その第一の理由は「占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしい」というものである。ミッドウェーはハワイからわずか1800キロしか離れていないため、ハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、すぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても、日本の奇襲以来ハワイの基地を強化し続けてきた米軍にとって脅威にはならず、米国民の士気に影響を与えることはなく、従ってアメリカが和平交渉を提案することはあり得ない、というのである。
 また日本の偵察機の行動半径は20キロにすぎないので、広大な太平洋のまんなかで有効なる偵察任務は果たせない、と反論した。
 それよりもニューカレドニア、フィジー、サモア諸島に対する攻撃を強め、オーストラリアとの分断をはかるほうが戦略的価値は高く、アメリカ艦隊も本国基地から遠く離れているので、補給困難に陥るだろうとし、米艦隊をおびき出す目的であれば、オーストラリアが自国の海岸線をおびやかされるためアメリカに救援をたのむのは確実である、と強く反駁したのである。
 ところが山本長官は、「敵の空母勢力を撃破すれば自ずから米豪間は分断されるので、まずミッドウェーで敵の空母をおびき出し、これを必ず撃破してみせる」と豪語したのである。山本長官の主張はかたくなにミッドウェー攻撃一点ばりであった。
 ミッドウェーがアメリカ最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利なことは一目瞭然である。にもかかわらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズヴェルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊をここで壊滅させる約束をしていたからに違いない。
 そもそもハワイ真珠湾で航空機による奇襲攻撃を実施し、航空機のもつ破壊力と重要性をわざわざアメリカに教えたことのみならず、生産力では圧倒的に勝るアメリカがこのことを教訓に大量生産のもと、航空戦力の飛躍的増大をはかったことは山本長官の決定的ミス(実は陰謀)ではなかろうか。以後アメリカはあらゆる戦局で航空戦を挑み、日本を圧倒していくのである。
 ミッドウェー作戦自体も、真珠湾攻撃同様山本長官が立案したものであるが、山本長官の表向きの主張はミッドウェー島の攻略と米空母部隊をおびき出した上で、これと決戦をするという2つの目的であり、首尾よく米空母部隊を撃滅できた場合は、続いて10月頃ハワイを攻略するというものであったが、真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破壊に導くことであった。
アメリカは充分に航空戦の練習を積み、山本長官のさし出した獲物に向かって  殺到したのである。山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。だが山本長官はその反対にはまったく耳を貨そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。
 いくら連合艦隊司令長官が特殊な立場であり強い権限を持っていたからと言っても、大本営軍令部にこれほどまで楯つくことは異常であった。フリーメーソン山本長官はルーズヴェルト大統領(フリーメーソン33位階)やチャーチル英首相(フリーメーソン)との約束を死守したのである。
 ミッドウェー海戦で首尾よく日本の空母部隊を壊滅させた山本長官は、次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行ない、自らはアメリカ側と通謀の上、逃亡計画を実行する。ブーゲンビル上空での戦死狂言である。ではそこに到るまでのプロセスを見ることにしよう。

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