山本五十六は生きていた
ヤコブ・モルガン・著 第一企画出版
 1995年刊
 
C
山本五十六は戦死していなかった

 悲劇のガダルカナルを生んだ大本営軍令部


 ミッドウェーは太平洋戦争全体を通じてまさにターニングポイントであった。この敗北以来、日本の帝国陸海軍は苦況に陥るのである。それを象徴するのがミッドウェーの海戦であった。
 「MO作戦」でニューギニアのモレスビー攻略に失敗した日本軍が、米豪を分断するため、次に戦略的拠点として選んだのが南太平洋ソロモン諸島の主島ガダルカナル島である。この島に飛行場を敷設し、強力な基地航空隊をおけば、南西太平洋の制海権(制空権ではない)が得られ、アメリカとオーストラリアの連絡は分断され、オーストラリア北東部は日本軍の攻撃範囲となり、ここに猛攻を加えることによりオーストラリアを厭戦気分に陥し入れ、連合軍からの脱落を誘い、日豪単独講和にもち込むことができればアメリカも戦意を喪失、日米の和平も実現できるのではないかと海軍は考えていた。
  (中略)
 ガダルカナル戦およびソロモン海戦で極めて特徴的なことは、日本軍に戦略というものが全く存在しなかったことだ。山本長官はソロモン海戦においても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、さらにのちのレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将などの無能な司令官を投入し、日本艦隊の消耗を加速させた。その分、アメリカ側の被害は最小限で済んだのである。
 山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」などの大型戦艦を攻撃隊に加えることなく、戦力の小出し投入を行なった。このため戦艦「大和」はついに「大和ホテル」と呼ばれるありさまであった。
 ガダルカナルの空軍基地からは、山本長官の指揮下にあるすべての空母や戦艦など58隻からなる大艦隊と艦載機を駆使して全力投入していれば、奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にすることができたはずであった。
 戦後『大日本帝国海軍』の著者ポール・ダルは、その中で「山本長官はこの会戦をどう考えていたのか理解しにくい」と指摘しているが、山本長官の行動は良心的なアメリカ人にすら全く理解のできないものであった。
  (中略)
 ガダルカナルおよびソロモン海戦で、日本軍は2万3800人におよぶ地上部隊員の戦傷病死を出し、艦艇の喪失も空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦等25隻、それに航空機の喪失は1053機にも及んだ。
 昭和17年12月31日、昭和天皇はガダルカナル島からの撤退を裁可し、翌18年2月1日から7日にかけて、3回の撤収作戦を実施、同島に取り残された飢餓と熱帯病のため生死の境をさまよいつつあった日本軍将兵1万有余人を救出したのであった。
  (中略)
 山本長官は昭和18年4月16日、北ソロモン諸島にいる将兵の労をねぎらい士気を鼓舞するためと称し、前線基地視察を計画した。。

 疑問だらけの死体検案書 [TOP]

 こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。
 この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。
 山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。
 ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官ひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。
 米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。
 山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP−38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。ミッチェル隊はP−38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。
 右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参課長ら3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見された。
 山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであったとされているが、その死には深い謎がつきまとう。
  大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。
 ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。
 「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」
 同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。
 にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。
 前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。

 戦死が狂言であったこれだけの証拠  [TOP]

 山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。

1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。

2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。

3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目立たぬよう略装にした。

4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。

5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛りつけ毒殺した。

6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。

7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工的な死後損傷を加えた。


 事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。

 戦後、「山本五十六を見た」という多くの証言 [TOP]

 ここで「運よく」助かった宇垣纏中将とは何者かを知らなければならない。(中略)
 三国同盟締結の折は賛成派に回ったため山本長官にうとんじられているとも言われたが、どういうわけか昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐することになる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常にその意向を尊重し、補佐してきた。
 あれほど傲岸不遜な宇垣がなぜ山本長官に寄り添い続けたのか。そのわけは宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信したことにあろう。
 山本・宇垣のコンビは真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。
 ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手はずを整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生きのびており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや、沖縄の沖合に蝟集する米艦隊めがけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、そのまま行方を絶った。日本の敗戦を見とどけて姿を消したと言うべきか。
 戦後、山本長官の姿をどこやらで見かけたと証言する人もおり、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営によって手厚く保護されるのである。

 ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから [TOP]

 ここで山本長官の果たした役割についてもう一度まとめてみよう。
 真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。
 日本人フリーメーソン山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。
 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。
 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。
 山本長官はこの計画を実現させるためにいろいろな手を打った。開戦の年昭和16年(1941年)夏の時点では、真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷はまだ開発中であったし、9月初旬においても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末にはすべて解決した。
 ところが肝心の永野修身軍令部総長ら海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部はまだ日米開戦に躊躇し、真珠湾攻撃が実際にどれだけ効果をあげられるか疑問を持っていたのである。日本がアメリカを仮想敵国としたのは明治40年(1907年)4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な作戦計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島どまりだったのである。
 昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。

 日本を敗戦に導いた山本の謀略とは
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 山本五十六連合艦隊司令長官が3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の中で、実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビル島上空で「戦死」する昭和18年4月18日までの1年4カ月である。
 この間に山本長官は偉大なる貢献を「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に行なった。その貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わることを望んでいた。日本を敗北させることがフリーメーソンである山本五十六の役目だったのである。
 そのためには日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう1つは、アメリカの太平洋艦隊に対し常に手ごころを加え、その戦力を温存させることであった。このため山本長官が取った手段は次の通りであった。

海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。ただしその攻撃は不徹底なものとする。
  忠実なる配下の指揮官
   南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
   草鹿龍之前少将(第一航空艦隊参謀長)
   源田実中佐(第一航空艦隊参謀)

● 珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」撃沈せず。
  忠実なる配下の指揮官
   井上成美中将(第四艦隊司令長官)
   原忠一少将(第四艦隊空母指揮官)

● ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。
  忠実なる配下の指揮官
   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
   草鹿龍之肋少将(機動部隊参謀長)

● ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る。
  忠実なる配下の指揮言
   三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
   草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
   原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)

● 「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。

 いずれの海戦においても忠実なる配下の凡将、愚将、怯将である南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将などを長期にわたって使い続け、「攻撃の不徹底」ないしは「手ごころ」を加えさせている。
 さらに大事なポイントは、海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたことであろう。山本長官はアメリカが日本海軍の暗号電報をすでに解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていたこともあらかじめ承知の上で、作戦を強行したふしがある。真珠湾攻撃のときもそうであるし、モレスビー攻略作戦(MO作戦)における珊瑚海海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、アメリカ側に充分な情報と対応のための準備期間を与えていたと考えられる。
 長期間に及んだソロモン海戦のときも日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きはすべてアメリカによって把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図によってその初期戦力を激滅させていたのである。
 この偉大なる「功績」により山本長官の役目は一通り終った。そして姿を消す時期がやってきたのである。ブーゲンビル島上空における「戦死」がそれである。アメリカが暗号解読をしていることを承知の山本五十六は、前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。
 山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官とともに1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。
 戦後の日本がアメリカに占領され、民族心をことごとく失うまでに洗脳された結果、「世界支配層」に迎合するフリーメーソン作家がこのような日本民族に対する背信行為をするのも、いわば当然であろう。
 日本が開戦したときのアメリカとの国力は1対10の比率であったと言われる。
 このために日本が戦争したのは無謀であったとか、やがては負ける運命であったなどという意見があることも事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利をおさめていれば(それは可能であった)アメリカの戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。

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