ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
 

 父からの通信が届けられるまでの経緯
      ―― エステル・ステッド

 1912年4月15日、“不沈”をうたい文句に建造されたばかりの英国の豪華客船“タイタニック号”が、皮肉にもその処女航海において北大西洋上で氷山と激突、2,000余名の乗客のうち1,500余名の生命とともに海の藻屑と消えました。そのころ私は、シェークスピア劇団を引き連れて公演旅行に出ている最中で、父・ウィリアム・ステッドもその犠牲者の中に入っておりました。
 実は、団員の一人にウッドマンという、霊感の鋭い男性がいて、その悲劇的な事故の起きる少し前の日曜日の午後、みんなで紅茶を飲みながら談笑している最中に、彼がその事故とおぼしきことを口にしていたのです。船の名前も父の名前も言いませんでしたが、犠牲者の中に私と非常に近しい年輩の男性がいる、と述べていました。
 時間的にみて、その事故が起きたのはその後のことでしたから、ウッドマン氏はこれから起きる出来事を予知していたことになるわけです。
 そのことをことさら紹介するのは、父の霊とウッドマン氏とのつながりは、すでにその時点から始まっており、本書に収められたメッセージを父が届けることができたのも、ほかならぬウッドマン氏の霊的能力(自動書記)のお蔭であり、そうしたいきさつは読者の皆さんにとっても興味ぶかいことであろうと考えるからです。
 大惨事が起きてから2週間後のことです。多才な霊媒として有名なE・リート女史による交霊会(※@)において、父が顔だけを物質化して出現する(※A)のを見ました。そして語る声も聞きました。その声は、タイタニック号に乗船する直前に私に別れを告げた時の声と同じように、はっきりとしておりました。父との話は30分以上にも及びました。

※@――文字どおり「霊と交わる会」のことで、数人から十数人で家庭内で行なうのを家庭交霊会、大きな会場で数十人とか数百人を相手に行なう場合を公開交霊会という。デモンストレーションは主として霊視能力と霊聴能力で行なわれるが、ホームサークルでは霊の生前の声が聞かれたり、次の註にあるように、生前そのままの容貌や容姿全体が出現することがある――訳者。

※A――これを物質化現象という。霊媒の身体から抽出される神経細胞の一種に、霊界の特殊成分を混合して作られるエクトプラズムという半物質を霊体にまとうことによって姿を見せる現象。
 顔とか手足だけの部分的現象と、全身がそっくり出現する全部的現象とがある。全部的現象で有名なのは、英国の物理化学者ウィリアム・クルックス博士が少女霊媒フローレンス・クックを使って自室で行なった実験に出現した、ケーティ・キングと名のる霊で、博士はそれを44枚の写真に収めて公表し、大センセーションを巻き起こした。人類史に残る画期的な事件だった。これについては巻末の“訳者あとがき”で改めて取り上げるが、博士の報告書によると、肌ざわりや話しぶり、動作などすべてが人間と少しも変わらず、手を取ってみると温かくて脈拍まで打っていたという。こうした事実は将来の研究テーマであろう。
 エクトプラズムという用語はフランスのノーベル賞生理学者シャルル・リシェ博士が、「抽出された」という意味のギリシャ語エクトスと、原形質を意味するプラズマとで合成したもの――訳者。


 これを突拍子もない話と思われる方が多いでしょう。が、紛れもない事実なのです。出席していた何人もの人が証言してくれております。私はそれを記事にして雑誌に掲載していただきましたが、その時の出席者全員が署名入りで証人となってくれました。
 その日から、10年後の今日まで、私は父と絶えず連絡を取り合っております。何度も語り合っておりますし、通信も受け取っております。その内容は、父が死後もずっと私たちの生活に関わっている確固たる証拠にあふれております。
 はっきり申し上げて、タイタニック号とともに肉体を失って霊界入りした10年前よりも、むしろ現在の方が心のつながりは強くなっております。もちろん死の直後は、その姿が見えなくなったということだけで大きな悲しみを覚えておりましたが、その後は別離の情はカケラも感じなくなっております。

 さて、1917年に、兵役期間を終えたウッドマン氏が私たちのもとに帰ってきました。そして、程なくして彼のもとに親友の戦死の報が届けられると、それまであまり関心を持たなかった死後の世界との交信に強い関心を寄せるようになりました。ぜひともその親友の霊との交信をしようと一生けんめいになったのです。いつの時代にも、愛する者の死は大きな探求への刺激となるようです。
 間もなく、その友人の存続と、交信の可能性を示唆する確固たる証拠が得られました。最初の証拠が得られたのは、V・ピーターズ氏による交霊会においてであり、ひき続き、かの有名なオズボーン・レナード夫人、さらには霊媒能力をもつ友人を通して、次々と証拠が得られました。
 ピーターズ氏による交霊会には私も列席しておりました。その時は私の父も出現しました。ウッドマン氏の友人の霊が言うには、最初の交信の試みが成功したのは私の父がいて手助けしてくれたから(※B)とのことでした。

※B――霊界から地上界へ通信を届けるには、大きく分けて、“書く”方法――自動書記――と“語る”方法――霊言・直接談話――の2種類があるが、いずれの場合もさきの物質化現象の訳注で紹介したエクトプラズムが最大のエネルギー源となる。といって、それを利用すれば誰にでも通信ができるかというと、これにも要領があって、そう簡単にはいかないようである。
 そこで、ピーターズ氏の友人の場合のように、他界して間もない霊が通信を送る場合は、ステッド氏のような霊に手助けしてもらうか、前出のレナード霊媒の支配霊フィーダのような、そういうことに馴れている霊に代弁または通訳してもらうかの、いずれかになる。
 もちろんこれはまじめな霊の場合の話である。それ以外にイタズラ霊がそれらしく演技して適当にごまかす場合もあるから、用心が肝要である――訳者。


 そういう体験のすぐあとからウッドマン氏は自分に自動書記能力があることを発見し、彼を通じて、父をはじめ何人かの霊が通信を送れるようになりました。父はいつも私か同席してくれることを望みました。私がいないと、そうでなくても難しい通信がさらに難しくなるとのことで、私が不在の時は滅多に通信してこようとしませんでした。その理由をこう説明してきました。父と私との間には波動的に非常に共鳴する要素があり、互いに緊密な連絡が取りやすいので、通信に必要なエネルギーを私から摂取するのだというのです。つまり私は父とウッドマン氏とをつなぐ連結役となっているわけです。
 といって、私はただウッドマン氏のすぐ側に腰かけているだけで、何もしませんが、部屋にいる私たち2人を包むような光輝をよく見かけます。そんな時、ウッドマン氏の右腕に1本の強烈な光線が射しているのが見えます。父自身の姿が見えることもあります。姿が見えない時でも、自動書記をしている間は父の存在をひしひしと感じます。
 そうした要領で受け取った父からのメッセージは相当な量にのぼります。1918年には毎週1回、きちんと交霊会を開いた時期があり、第一次大戦がまだ終結していないこともあって、最前線の様子や、これからどう展開するかについての通信を得ておりました。通常のニュース報道よりも何日も前に“予報”を受けていたことがしばしばありました。一度だけですが、来週の新聞の見出しはこう出る、と父が言ってよこし、事実その通りになったこともありました。
 父とウッドマン氏との関係について、興味ぶかいと同時に、大切でもある事実をここで述べておきます。
 父は、生前、ウッドマン氏とは一度しか会ったことがありません。それも父がタイタニック号で英国を発つ少し前に私がウッドマン氏を紹介した時で、その時も、二言か三言、言葉を交わしただけでした。したがってウッドマン氏は、父のことを個人的には何も知りませんし、ましてや、父の著作や評論活動に関与したことは、まるでありません。にもかかわらず、ウッドマン氏が受け取ったメッセージの文体や用語が父のそれにそっくりなのです。
 さらに面白いのは、文章を綴る時のクセまで父にそっくりだということです。ウッドマン氏は自動書記の最中は目を閉ざしており、ハンカチで押さえることもよくありました。部屋は薄暗くしてあり、すぐ側で見ている私にもその文章が読めないことがありましたが、用紙から文字がはみ出してしまうことは絶対にありませんでした。
 明らかに父は、自分で書いたものをもう一度読み返しているようで、“i”の点や“t”の横棒をきちんと書き直しておりました。これは父の生前からのクセで、いったん書き終えた記事をもう一度読み返しながら、“i”の点や“t”の横棒を書き直していたものです。そのクセを知っているのは、私を含むごくわずかな人に限られており、ウッドマン氏が知っている可能性はまったくありませんでした。
 そうした要領で受け取った長文のメッセージのうちの2つが、すでにパンフレットになって公表されています。2つとも休戦記念日(11月11日)に父から送られてきたもので、1つは1920年に、もう1つは翌21年に受け取ったものです。
 1920年のメッセージは予告なしに、いきなり届けられました。記念日を前にした日曜日に、母と私、それにウッドマン氏を含む二、三の知人ばかりで紅茶を飲みながら、世間話に花を咲かせておりました。そこへ突然、父が入って来たのを私は感じ取りました。そして、書き送りたいメッセージがあるから用意をしてほしい、と頼んでいるように思えました。ひどくせっつかれる感じがしました。
 しかし、その日は無理でしたので、明日の夜に、という約束をしました。ウッドマン氏はその夜の9時ごろ来てくれました。暖炉のそばで2人で談笑していたところ、やがて父が入ってくるのを感じ取りました。そこで私たちもすぐさま自動書記の用意をしました。
 生前の父はいつもそうで、ある大事な用事を思いつくと、もうそれ以外のことは一切考えず、それ一つに集中して、まわりの者を急かせるのです。2人の用意が整うと、いきなりウッドマン氏の手が動きはじめ、次のように綴りました。
「今、まとまった長文のメッセージを用意してきているのだが、そちらに異存がなければ、このまま続けて書き送らせてほしい」
 そう述べたあと、一呼吸置いてから、猛スピードで書きはじめ、ほぼ30分ほどで書き上げました。そして私に、それを読み返して必要なところに句読点を入れてほしい、と指示してきました。
 そう書き終えると、他のことは一言も述べずに、父はさっさと居なくなりました。私たち2人にとってその30分間はまるで台風が通過したみたいでしたが、それだけの価値はありました。翌日そのメッセージを印刷してセノタフ(※C)を訪れた人に配布しました。翌1921年のメッセージも同じ要領で届けられ、2つともパンフレットに綴じて、休戦記念日の式典に参加した方全員に配りました。

※C――ロンドンにある第一次大戦戦歿者の記念碑。毎年、休戦記念日にその記念碑の前で式典が取り行なわれる――訳者。

 父が、本書に収められた通信を送りたいという意思表示をしてきたのは、その1921年のメッセージが送られてきてから間もなくのことでした。これは相当な分量になると直感した私たちは、そのつもりであることを第三者の霊媒を通して伝えてほしい、と要請しました。
 父はそれを、レナード夫人の交霊会で出席者の一人に伝えることによって約束を果たしました。一連の長文の通信を送りたいので、そのつもりで臨んでほしい――内容は自分の霊界入りの様子と、その後の体験となる、ということでした。
 ウッドマン氏も私も忙しい身で、こうした霊的なことに割ける時間は限られているために、2人の都合がうまく噛み合わないことがしばしばでした。そのため、父からのメッセージを受け取り終るまでに数か月を要しました。受け取る要領はさきに述べたのと同じです。初めから本書の目次どおりに届けられたわけではありません。が、全体としての構成に関しては明確な指示が届けられておりました。
 本書を書く意図に関しては、父自身が“まえがき”の中で述べておりますので、改めて述べる必要はないでしょう。ただ、父の当初の予定では、もっと長文のものを念頭に置いていたようです。が、書いていくうちに、あまり長くない方が多くの人に読んでいただけるし、価格も安くて済むだろうと考えるようになったみたいです。いかにも父らしい考えであることは、父を知る人ならお認めになることでしょう。
 以上、私は本書を構成している通信がどういう経緯で入手されたのか、そして又、それが間違いなく私の父ウィリアム・ステッドから届けられたものであることを確信する根拠は何かについて、簡略に述べさせていただきました。あとは読者の皆さんが本文をお読みいただいて判断していただければ、それで結構です。
 きっと多くの方が、本書をただならぬものとお感じになるであろうことを、私は確信しております。願わくは、死後はどうなるかについて、従来のただの信仰とは異なる現実味のあるものに目覚められ、みずからの手でさらに確固たる証拠を求める努力をなさるようになっていただけば、本書に関わった3人、すなわち父とウッドマン氏と私にとって、それにまさる満足はございません。
            1922年9月
 
 
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