まえがき
オカルト的なものや霊的なもの、要するに未知の力の働きに初めて接した人は、大いにうろたえるものです。大自然の神秘は本来は探求のよろこびを与えてくれるものであり、神秘的であること自体が探求と研究の刺激となり、未知なるものを征服し、それまでに知られていない、あるいは証明されていない分野についての知識を得たいと思わせるのが普通です。
しかしこのことは、どうやら死後の生命にまつわる神秘を扱う際には当てはまらないようです。どこか、“恐怖心”というものが付きまとうもののようです。たいていは地上時代に知り合っていた人、あるいは愛し合っていた人の霊に対する“心情的”なものにすぎないのでしょうが、それに“信仰的”なものが加わると、その霊にとって有害となるのではないかとの恐れが伴うのです(※@)。
※@――キリスト教では死後は“最後の審判日”まで墓地で眠っているとの信仰があり、それゆえ、霊と交信することはその霊の安眠を妨げることになると考えて、交霊会を邪道であると主張する――訳者。
見方によっては、そうした心情は一概にいけないこととも言えません。利己心がないことの証拠であると言えます。そういう理由から交霊を控える人は、向上の可能性を秘めている人と見ることもできます。そういう謙虚な心の持ち主が本格的に真理の探求に乗り出せば、大いなる援助を受けて飛躍的に進歩します。
他方、神秘的直観によって神との直接の接触を求められるとする思想に染まった人は、そんな死者の殻にすぎないものと接触することを気味悪がります。さらには、未熟で無教養であるがゆえの“無知”が恐怖心を生んでいる場合もあります。学校教育を受けていないという意味ではありません。霊的なものを理解する感性に欠けているという意味です。
その種の人たちに対して深甚なる同情を禁じ得ないのですが、私の場合は地上時代からそういう人々を気の毒に思い、死後の世界の実相について啓発したいと努力してまいりました。物的生活のさまざまな制約から思うにまかせませんでしたが、このブルーアイランドに来てからも、引き続き啓発の仕事にたずさわっており、その仕事の量と行動範囲は地上時代の比ではありません(※A)。
※A――死んで霊の世界へ行けばみんな霊的実在に見覚めると思うのは大間違いである。いちばん不思議なのは、死んだことに気づかずに地上時代と同じ生活の場をうろつきまわり、家族も含めて誰も自分のことをかまってくれないので、自分の方が失語症にでもなったのかと思い込んでいる者すらいることである。
たとえ死んだことに気づいても、地上との悪縁が断ち切れずに、実質的に地上的波動の世界に生きている者もいる。たとえば死刑囚などが復讐心を抱きつづけている場合などである。
その他には、さきの“註”で指摘したように、地上時代の間違った信仰が足枷となって、向上進化を妨げられている場合や、知性が強烈すぎて、自分の想像した宇宙観、一種の想念の世界に閉じこもったきり、何百年も何千年も過ごしている者もいるという。これをある通信では“知的牢獄”と呼んでいる。
ステッドが「引き続き啓発の仕事にたずさわっている」と述べているのは、そうした霊界での落第生を相手にした仕事のことである――訳者。
私はまずますの成功をおさめたと申してよいかと思っております。と言っても、多くは理解へ導く霊的知識の階段の、やっと途中まで来た程度です。
私は今「幸せへ導く」と書こうとして、「幸せ」を「理解」に置きかえました。幸せというものの捉え方は人によってまちまちだからです。地上の人たちが用いている意味での幸せは、人生の存在理由とは言えません。幸せになるために地上に存在しているのではないということです。幸せとは、成し遂げた仕事、達成した進歩、人のために尽くしたサービスに対する報いとして味わうものです。それを生み出すのが“理解”なのです。
今も述べた通り、こちらへ来てからの私の仕事はまずまずの成果をあげておりますが、このたびの企画は、こちらへ来てから新たに手にした霊的知識を、私の体験をまじえて皆さんにお届けすれば、私が人類のためを思って手がけてきた仕事をさらに一歩押し進めることになると信じた上でのことです。
これから私がお届けするものに興味をもってくださる方は多いことでしょうが、さらに多くの方にとっては、何の意味もなさないかも知れません。でも、私が課題として持ち出すものは、その気になれば、ある程度まで自分でその真実性を吟味することができるものにしたいと考えております。霊的直観力によって判断できるという意味です。
読むに値するメッセージ――神がその無限なる愛によって、私をその通路となることをお許しになった言葉であることを直観なさるはずです。本書は、生命の神秘に関する私の考えを述べたものではありません。私が説明したものにすぎません。
全体としてキリスト教的色彩は免れないと思います。が、その解釈は、一般に受け入れられている伝統的キリスト教とは異なります。たとえばキリスト教では罪を悔いてイエスへの忠誠を誓えば、死後ただちに天国へ召されると説きますが、これはとんでもない間違いです。
“死”は一つの部屋から別の部屋へ移る通路にすぎません。二つの部屋は装飾も家具の配置もひじょうによく似通っております。そこが大事な点で、皆さんにぜひ理解していただきたいことです。この世もあの世も、同じ神の支配下にあるのです。同じ神が全界層を経綸しておられるのです。
第一章はやはり、肉体を離れてこちらへ到着する時の様子から始めることになるでしょう。今も言った通り、本書で述べられることは、多くの人から関心を寄せられることでしょう。そして、これが精神的な救いになる方も、少数ながらいらっしゃるでしょう。この企画に関与する者たち(※B)が意図している目標は、実はその少数の人たちなのです。あまり学問的になりすぎないように心掛けるつもりです。すべて、健全な常識でもって判断すれば納得がいくものばかりです。真実なるものは、無きものにしようとしてもムダです。
※B――この言い方から判断して、やはり相当数から成る霊団が結成されていたものと察せられる。ステッドがその中心的支配霊だったのであろう――訳者。
全体を通じて私は簡潔ということをモットーにしました。煩わしい内容をこまごまと解説したものは敬遠する人でも、簡潔で短かいものなら読んでくださるだろうという、ただそれだけの理由からです。
最後に申し上げておきたいのは、興味をもたれる方も無関心の方も。つまりスピリチュアリズムと呼ばれている大問題の真実性を信じている人も、疑問に思っている人も、ともに今なお地上に存在する身の上であり、従ってそれ相当の義務を背負っているということです。日々の生活があり、なすべき仕事があります。死後の世界がいくら明るく美しいからといって、現実の生活をおろそかにしてはなりません。その片隅に明日の楽しみを宿しながら今日を生きるというのが、正しい生き方でしょう。
又、スピリチュアリズムの現象面は必ずしも万人向きではないということも忘れないでいただきたいと思います。霊界通信というものを。心霊現象を基盤とした上で理解することができないタイプの人が多いのです。霊の教えということだけで有り難く読むだけで、その真実性の根拠としての現象には関心をもたないのです。
そういうタイプの人にとっては書物と他人の体験から得る知識だけで十分であり、むしろそれ以上深入りしない方が賢明でしょう。その意味でもスピリチュアリズムは万人に押しつけるべきものではないわけです。
ウィリアム・ステッド
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