ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
11章 実相の世界
 

 私の案内もいよいよブルーアイランドでの最後の日々のことと、次に赴いた世界に定住していく様子のことになりました。
 ブルーアイランドはあくまでも過渡的な世界です。新参者が霊的環境に馴染むことを目的として用意されたもので、準備が整うと、本格的な霊の世界、実在の世界へと進んで行きます。そこには。地上での生活期間など比較にならない永続的な生活が待っております。そこから、ブルーアイランドに戻ってくることは可能です。現に、多くの霊が、新しく霊界入りする知り合いや家族を迎えに降りてきて、案内したり面倒をみてあげたりしております。が、あくまでも一時的な訪問であり、そこにいつまでも滞在するようなことはありません。
 こうした行ったり来たりの「場所の移動(※@)」は、地上とはまったく異なります。その詳しい説明はともかくとして、本格的な霊界への移住は、地上からブルーアイランドに初めて来た時と同じように、大集団で行なわれました。顔ぶれは同じではありません。同行を許されない者も沢山いました。代わって、知らない人の方が大勢いました。移動する時の感じは、来た時と同じく物凄いスピードで空中を飛行しているようでした。

※@――ジョージ・オーエンの霊感書記通信『ベールの彼方の生活』の第三巻に、通信霊をリーダーとする15人の霊団が暗黒界へ赴き、大量の霊を救出する話か出ている。その霊の集団はその後ひとまずコロニーを建設して、そこで更正のための生活を営むことになる。そして第四巻の冒頭にコロニーのその後に関する話題があり、その中に次のような一節がある。

《その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつその位置が光明界へと移動しております。これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難、否、不可能かも知れません。それで、これ以上は深入りしないことにします》

 この一節を呼んで私がすぐに思い浮かべたのは、私自身が睡眠直前に時たま体験する現象で、ステッドが最初にブルーアイランドに運ばれて行った時と、本格的な霊界へ向上して行った時に物凄いスピードで虚空を上昇して行ったという体験と同じではないかと考えている。私の判断ではそれは、実際にはそんなに遠い距離を飛んでいるのではなく、霊的感性の特殊な反応ではないかと見ている。
 例えて言えば、車の運転のシミュレーションのようなもので、身体は一定の位置に座っていながら、感覚的には物凄いスピードを出して運転しているかのように錯覚している。ステッドの体験はもちろん“錯覚”ではなく、霊性が次の環境に備えて何らかの変化をしているのであろうが、位置を移動しているのではなく、高次元的な変化が三次元的な変化として認識されているだけなのではなかろうか――訳者。


 到着した場所の印象は、ブルーアイランドのあの鮮明な青々とした印象に比べると、取り立てて形容するほどのものではありませんでした。色彩にさほど目覚ましいものがなく、住民は一定のパターンにはまっているという感じでした。一見すると地上界に戻ってきたような印象で、何となく私には当たり前と思えるような環境のように思えました。他の者に訊ねてみると、同じような返事でした。それもそのはずで、各自にとってそこが、地上時代に培った霊的成長と民族の資質に似合った場所なのでした。摂理の働きで自動的にそういうふうに収まるのです。
 あなたも、いや、地上の人間すべてが、いつかは必ずこの界層に来るのです。そしてここでも、霊的成長のための学習と仕事を続ける一方で、残り少なくなった地上時代の習慣と考えをさらに抑制し、あるいは棄てていく努力を続けます。生活形態そのものは地上時代と同じですが。対人関係は緊密度を増していきます。
 家屋は地上と同じく自分の好みのものを所有し、気心の合った人たちと、見晴らしのいい丘の上などに集まって生活しています。まるで宮殿のような豪華な家に住んでいる人もいます。興味深いのは、そういう人たちは大抵地上でひどい貧乏暮らしをしていた人たちであることです。そういう暮らしを夢見ていたわけです。死後のブルーアイランドでの調整期間に、進化を促進するには、そういう潜在的願望を満たしておくことが必要との判断がなされて、豪華で安楽な生活が許されたと考えればいいわけです。
 しかし、その結果として、意図された通りの成果が見られない――豪奢な生活に甘んじてしまって進化が促進されない場合は、豪邸は没収され、改めて別の調整手段が講じられます。一人ひとりにそれなりの手段が講じられます。それまでの生活を維持したければ、それなりの努力をするほかはありません。
 この界層まで来ると、食べること、飲むこと、寝ることへの願望はもう消えてしまっております。荒けずりではあっても、物的なものから脱し切って、純粋な霊としての生活が始まりかけております。が、まだまだ錬成が必要です。そこで、この界層にも学問的と修養のための施設が用意されています。ありとあらゆる情報と知識が用意されています。向学心、ないしは向上心さえあれば、どの施設でも利用することが許されます。
 と言って、知識の詰め込みばかりをするわけではありません。生活のパターンは地上生活によく似ております。やはり“仕事”が中心です。ただ、身体的にも精神的にもはるかに自由で、行動範囲が拡大しています。地上でしか必要でない仕事、霊的自我の成長にとって何の足しにもならない仕事は、もう忘れ去られております。
 それがどういう仕事であったとしても、今はもう関係ありません。階級差などは全くありません。かつて想像もしなかったほどの広大な視野が開けております。進歩を促進するのも妨げるのも、学問的知識と霊的知識をどれだけ獲得し、どこまで理解するかに掛かっております。
 ここはまさに「自由の天地」です。幸福感と笑顔にあふれた世界です。人間と人間との真実の愛が生み出す幸福の世界です。その幸福の度合は、地上時代の精神生活の中で培われているのです。それを具体的に説明してみましょう。`
 この本格的な霊の世界に定住するようになって間もなく、品性卑しからぬ指導霊によるインタビューを受けます。地上時代の言動の全記録を総点検しながら。その方と是非を論じ合います。理由と動機とその結果が分析されます。ごまかしは利きません。大きい出来事も、小さい内緒事も、すべてが映像として残っており、何一つ見逃されることはありません。行為に出たものだけではなく、心に宿したことも、ちゃんと残っております。
 一人ずつインタビューされます。そして償うべきこと――思慮を欠いた判断、不親切な行為、人を傷つけた言葉など、直接の影響を及ぼしたことに対する裁断(※A)が下されます。

※A――指導霊が一方的に下すのではなくて、本人が納得ずくでそれを認めるということで、裁判のような情景を浮かべてはならない。人に迷惑を掛けたものの中には、すでに地上時代に何らかの形で償われているものもあり、それが改めて問われることはないという。
 太古にあっては、こうした事実が寓話の形で語られたが、その後、宗教または信仰が組織的に拡大し、政治の道具とされるようになると、“悪魔”や“閻魔”を創作し、恐怖心でもって信者を拘束するようになって行った。
 このインタビューを現代風に表現すれば、長期の旅行に出るに先立って、人間ドックで健康を総合的に検査してもらって、治療すべきところを指摘してもらうようなものと考えればよいであろう。その治療法ないし矯正法は、このあと語られるように、誰かの背後霊となる場合もあるし、中にはもう一度生まれ変わるという手段を取ることになる場合もあるらしい。が、ステッドはそこまでは深入りした話はしていない――訳者。


 そのあと、そうした「過去の過ち」を償うための計画表が作成されます。それは当然のことながら地上界と密接につながっており、その償いにとって都合のよい、つまり効果的に償えるタイプの人生を歩む人間の背後霊の一人(指導霊)として影響力を行使することになります。決してラクな仕事ではありません。何しろ当人の意識にあるのは、自分が犯した過去の過ちであり、それが魂の足枷となって向上を妨げているのです。しかし、それを首尾よく解消してしまうと、“晴れて”この自由の界層での定住が許されるわけです。
 定住といっても、ここでの生活形態は各自の気質、個性、地上生活での体験の違いによって、千差万別です。実にさまざまなタイプの人間がいて、際立った対照を見せている場合もあります。地上時代と同じ仕事――知的および精神的タイプ――を続けている人も少なくありません。地上のように生きるための日々の糧を得るためにあくせくする必要がなく、ただひたすら、霊的な浄化と向上を目指しての生活に勤しむのです。ただし、気晴らしに地上時代の趣味をいじくることはあります。
 家に閉じこもって何かを勉強したり研究したりするわけではありません。生活に一定のプログラムが組まれていて、その中に適当にいくつかの空白の時間が設けられています。その時間を利用して、地上の有縁の人を伺ってみることもあります。単なる興味や情愛に動かされる場合もあれば、祈りの念を感じ取って援助に訪れる場合もあります。訪れてみると、精神的な悩みであることもあれば、病気や金銭上の悩みの場合もありますが、とにかく、われわれに許される範囲で精一杯の努力をいたします。
 こちらの世界にもあらゆる種類のレクレーションがあることは、ブルーアイランドについての通信の中で述べた通りです。地上時代の趣味とか、クセになってしまった興味は、霊性の進化にとって実害がないかぎりは何でも許されます。
 これでお分かりになったと思いますが、死後の世界はいたって自然であり、納得のいくことばかりです。地上時代に培った愛情はそのまま残っております。純粋なものほど強烈さを失っておりません。家族愛も友情も変っていません。もっとも、地上では金銭等の物的な利害が障害となって不愉快な関係になってしまうことがありますが、こちらへ来て、そうした物的な要素が消滅してしまうと、再び親密な関係を取り戻します。奥底にある愛は消えずに残っているのです。
 死がもたらす変化の中でも最大のものは、視野の拡大とそれに伴う心の広さです。理解力が増し、洞察力が深まって、かつてのさまざまな難問や誤解が立ちどころに解けてしまいます。そして、ブルーアイランドからこの実在界へと歩を進めると――つまり地上生活にまつわる因縁を解消し、借金を払い終ると、本当の意味での自由の身となって、望み通りのことが許されます。
 が、この世界での目的は、あくまでも向上進化です。それにもとるようなことをし始めると、たちまち自由が束縛されます。進歩を強要されるというのではありません。何をやってもいいのですが、地上時代の低俗な煩悩に動かされるようなことがあると、自動的に霊性が低下し、自由が束縛されるいうことです。高い世界にはそれなりの摂理があります。それを熟知し、それに則った生活を営まねばなりません。
 行動はまったく自由であり、地上界へ戻ってみることもできます。動きの速さはまさに電光石火で、二つの場所に同時に存在するのと同じくらいに行動することができます。
 この実在界では、いかなる存在との間にも親和力を感じます。地上で人間どうしで感じる親近感よりはるかに親密です。その親和力がこの世界全体に光輝を生み出しています。地上のように光線となって放たれているのではありません。この世界の大気に相当する雰囲気そのものが、明るい活性力をもった生命力にあふれているのです。
 ここでの生命活動は壮麗という形容がふさわしいでしょう。大胆になるといってもよいでしょう。幸福感に満ちあふれております。しかし、そうした恩恵に浴することができるのは、地上で分別あるまともな生活を送った人間に限られます。無分別な生活、自己中心の欲望に駆られた人生を送った者は、死後、困難と苦悶と悲哀とが待ちうけております。
 げに、「蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない」のです。
 
 
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