ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
12章 “無限”への旅の始まり
 

 あの悲劇的な海難事故で地上を去って以来、地上の時間にしてかなりの年数になりますが、その間、こうした形で絶え間なくかつての自分の生活の場、そして愛する者が今なお生活している地上界との連絡を取り続けていても、もう一度地上へ再生して生活してみたいと思ったことは一度もありません。とくにブルーアイランドを卒業してこの実在界へ来てからはそうです。
 ただ、今の私には地上時代にはなかった新しい視力がありますから、地上に残した縁ある人々のしていることを見ていて、その間違いが明確に見て取れます。そんな時には、今すぐにでも地上に生まれ出て直接諭してやりたい気持に駆られることはあります。
 が、そういう場合を除けば、地上生活をもう一度味わってみたいと思うことは、まずありません。それよりも、こちらでの見学や見物の旅、仕事、研究の方がよほど興味があります。それによって得た知識は、地上時代の知識とは比べものになりません。その中から皆さんにぜひ伝えたいと思うものを、こうしてお届けしているわけです。
 そういう個人的な関係とは別に、国家としてのその後の発達や内外の動向にも、格別の関心を抱き続けております。地上に縁の濃い人がいるかぎりは、愛国心というものも消えることはありません。が、その人たちもいつかは地上を去ってこちらへ来ます。すると次第に、そして自然に、地上への関心が薄れ、その分だけこちらの世界への関心が増し、愛国心は新しい他界者へと譲ってまいります。こうして受け継がれていくわけです。
 ブルーアイランドに来てからの足跡をたどってみると、その間の自分の進歩にはまずまずの満足感を覚えます。あのような事故でこちらへ来たことは、私にとって大変ショッキングなことでした。あの年(1912)が明けた時、2か月後に自分の死期が迫っているとは夢にも思いませんでした。また、そうなってもらっては困る時期でもありました。やりたいことが山ほどあったからです。そのうちのいくつかは、こちらへ来てからでも成就することが出来ましたし、今なお手掛けているものもあります。
 こちらへ来てまず心掛けたことは、新しい環境への適応でした。何もかもが新しいのです。動作も意志の伝達も、みな違います。こちらでは言語を使ってしゃべることは、あまりありません。それよりもっと表現力に富んだ、直接的な方法があるのです。精神と精神とが直接的に感応し合うのです。もっとも、地上と同じように、ことばで話し合うことも、しようと思えばできます。
 その他にも、そちらとこちらの生活形態には勝手の違うことが沢山ありますが、その中でもいちばん有り難く思うことは、精神活動が物的な事情によって制約されることがないことです。地上では何らかの願望――お金が欲しい、仕事を成功させたい、楽しいことがしたい、もっと知りたい、等々――を心に宿しても、いざ実践しようとすると、いろいろと制約があって、思うにまかせません。
 その点、こちらでは、理に適ったものであれば何でも存分に叶えられます。真理や知識を得たいと思えば、信じられないほど即座に手に入ります。しかし、それだけに動機が間違っていれば、その報いも即座に降りかかってきて、その償いをしなければならなくなります。こちらでは動機がすべてなのです。
 あなたの今の霊性そのままが死後のあなたの姿と環境に反映します。死後にまとう霊的身体は、その地上生活の中でこしらえているのです。仕事の中身と思念の性質がこしらえるのです。
 一見したところ、こちらの世界は地上界と実によく似ております。鉱物も植物も動物も、その他ありとあらゆる形の生命が存在します。人間が可愛がっている動物、飼い馴らした動物はもちろん、野生の動物もいます。が、野生のものは、それぞれの特定の生息地があって、そこに群がっております。
 こう言うと「じゃあ、地上界の写しのようなものですね」とおっしゃる人がいることでしょう。確かに、一見するとそう思いたくなりますが、実はその逆でして、地上界がこちらの世界の写しなのです。
 地上界は鍛練を目的として設けられた世界です。物的な富を蓄えて贅をつくして満足するのも結構ですが。それだけで終わってはいけません。自分の本当の個性を見きわめ、自制しながら発達させることを怠ってはなりません。地上特有の楽しさと喜びを味わうのは結構ですが、それに溺れて自分を失ってはなりません。
 さきほども述べた通り、他界後の私自身の進歩ぶりには満足しておりますが、自分個人から離れて、大局的見地から見ても、満足すべき成果があったと考えております。つまり地上界との交信にも大きな進歩があったということです。
 その成果は、皮肉にも、世界各地における戦争で肉体を失った若い兵士がこちらへ持ち込んだ物的エネルギーに負うところが大でした。英国だけの話ではありません。世界規模で言えることです。若い霊が、そのエネルギーと決断力を霊界へ持ち込んでくれたお蔭で、2つの世界の間で障害となっていたものが数多く取り除かれたのです。
 その間に多くの霊によって届けられた霊的知識には互いに矛盾するものもあるようですが、それをもって真理でないと決めつける理由にはなりません。真理というものは時として意外性をもち、立場上、受け入れては都合が悪いこともあります。が、真理はあくまでも頑固であり、いつかは必ず受け入れられなければならないものです。
 譬え話をしましょう。今、海を見下ろす断崖絶壁に立っていると想像してください。星の降るような夜で、海には何艘もの船が岸につながれています。その船の灯りがチラチラと見えています。見上げると満天の星が見えます。
 が、海の船との距離と、空の星との距離は比べものになりません。その船の灯りがあなたがた人間で、崖から見下ろしているのが霊界の私たちです。そのうち夜が明ければ、あなたがたの目に私たちの姿が見えるでしょう。その程度の距離でしかないのです。後に残した者のことを思い、何とか意志を通じさせようと必死になっている者もいれば、じっくり待つ覚悟を決めている者もいます。が、満天の星のように、私たちの上にも果てしない霊の世界が広がっているのです。その距離の何と遠いことでしょう。
 私たちもまだ旅に出たばかりなのです。何一つ忘れてはいません。愛も少しも失っておりません。
 
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