ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
13章 個人的存在の彼方へ
 

 地上での一生もそうでしたが、こちらへ来てからの生活も順調で、健全で、興味の尽きることがありません。
“霊”の話になると、とかく万能の魔力を秘めているかに想像されがちですが、私は相変わらず平凡な真理探求者にすぎません。“死”は私を少しも変えておりません。唯一の変化は、行動が比較にならないほど迅速になったことです。私は大いに若返りました。この事実だけは、時がたつにつれて、ますます明確になってまいります。
 死後の世界の問題に関心をもつ人は、その見解の相違はともかくとして、死後にも生命があるとする点は同じでも、では一体われわれは何のために存在しているのか、究極の世界ではどうなるのか、といった疑問を抱くことでしょう。
 これは実に厄介な問題です。なぜ厄介か。われわれの理解力・洞察力に限界があるからです。人間はもとよりですが、霊的存在となった私たちも、全知全能ではないということです。こちらへ来て、それがよく分かりました。
 地上でのあなたの心の姿勢がこちらでの意識レベルを決することは、これまで何度も説明してきましたが、同じことがこちらへ来てからも言えます。つまり現在の私の界層での心の姿勢が、やがて赴く界層での境遇を決するのです。上昇するかも知れないし、下降するかも知れない。幸福感が増すかも知れないし、減るかも知れない。そしてまた、そこでの私の心の姿勢によって、さらに次の段階での境遇が決まるという具合なのです。
 幸いにして向上の一途をたどったとしましょう。霊性が進化するほど、内部の霊的属性ないしは資質がますます発揮されて、いわば自給自足の生活の範囲が広がります。そうして向上していくうちに、ブルーアイランドで体験したのと同じ体験、すなわち、過去を総合的に検討させられる段階に至ります。
 一人でするのではありません。ブルーアイランドの時も高級霊が付き添ってアドバイスをしてくれましたが、こんどは、さらに高級な霊――神性を身につけた存在の立ち会いのもとに行なわれ、厳しい査定を受けます。
 その結果、もしかしたら、もう一度地上に再生して苦難の体験をした方がよいとの判断が下されるかも知れません。あるいは、まずまずの査定を受けて、さらに向上の道を進むことを許されるかも知れません。生まれ変わりの手続きはこの段階に至って行なわれるのです(※@)。その段階に至った頃には、かつての地上生活、いわゆる前世の細かいことは忘れているのが普通です。
 その段階に至るまでにどの程度の期間を要するかは、一概には言えません。が、一般的に言って、ブルーアイランドを卒業したあと、実相の世界の生活を体験しながらそこに至る期間は、地上生活よりも長いのが普通です。界層が高まるほど、そこでの滞在期間は長くなります。

※@――本書の通信霊のステッドと同じく地上でスピリチュアリズムに関心をもち、その真実性を信じて他界した後に通信を送ってきた霊に、ほぼ同時代のフレデリック・マイヤースがいる。地上時代に古典学を修めた詩人だけあって、その通信内容に学究的な香りがある。私が霊界通信によって魂を揺さぶられた最初の体験をしたのが、このマイヤースの通信を読んだ時で、浅野和三郎の抄訳『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』だった。(今でも潮文社から復刻版が出ている。)この二著は互いに補足し合う形になっていて、全体として一つと見るべきものであるが、ここでステッドが言及している再生について、別の角度から同じことを述べている。この抜粋を紹介すると長文になりすぎるので、私が簡潔に要点をまとめると――
 マイヤースの説の根幹をなすものは「類魂説」である。肉体に代々の親(先祖)がいるように、魂にも代々の親がいる。その魂の先祖が集まって類魂団を構成している。9章の冒頭の訳註でも述べたように、守護霊というのはその中の一人が指名を受けて責任を請け負ったものである。
 さて、その類魂団を構成する霊の数は50の場合もあれば100の場合もあり、それ以上の場合もある。それらが次々と物質界(地球ばかりとは限らない)に誕生してその体験を持ち帰る。死後しばらくの間(ブルーアイランドでの滞在期間)はその反省が主な課題となるが、その後さらに向上していくにつれて類魂の存在に気づくようになり、しかも、他の類魂の地上その他での生活体験からも自分の成長を促進するものを摂取することができるようになる。それを可能にさせるものこそが“愛”であるという。
 その時の協調関係は筆舌に絶する喜悦に満ちたものとなるらしい。かつて地上で英国の学校の教師だった者、アメリカ人の商人だった者、日本人の僧侶だった者もいれば、難民の子として餓死した者、過ちを犯して獄につながれたことのある者もいるかも知れない。が、今はもうそれによる魂の傷も癒え、償いも済ませて、全てが貴重な体験として仕舞い込まれていて、折にふれ、他の類魂の成長の精神的養分に供される。
 が、そうした協調関係による霊性の向上を続けていくうちに、どうしても、もう一度物質界での試練を必要とすることを明確に自覚する段階に至ることがある。それがステッドのいう再生の選択の時期である。そこに付き添ってアドバイスを与えてくれる高級霊というのは、類魂の中の先輩の一人である。
 その再生がいかなる原理のもとに行なわれるかは、少なくとも私が知るかぎりでは、細かく教えてくれた通信は入手されていない。シルバー・バーチ霊は「人間に教えてはならないことがいろいろとある」と述べているが、再生の原理もその秘密の一つなのであろう。知っても知らなくても、別にどうということのないものであることは確かである。
 また、巷間、チャネリングとかいって、前回の地上生活、いわゆる“前世”を読み取ったり、催眠術で本人に語らせたりする試みがなされているようであるが、霊ないしは自我の本性ついての理解がまだまだ幼稚な今の段階で、証拠もなく益もなく、むしろ危険に満ちたことを試みるのは控えるべきだというのが、私個人の見解である――訳者。


 さて、再生の必要なしとの査定が下され、さらに一歩“進級”することを許された霊が突入して行く世界は、それまでの“個”としての存在から“無”の存在となります。個性が消滅するという意味ではありません。個性は無くなりません。が、その影響力が他の“1人”ではなく他の“全て”に及ぶことになるということです。つまり、普遍的絶対愛の世界です。
 以上はただ概略を述べただけです。進化の旅のおよその旅程を述べただけです。たとえ詳しく述べたところで、地上の人間にはとても理解できませんし、正直言って、私自身にも完全な理解はできません。何度も述べましたように、私もまだ物質界を旅立ってほんの少し霊界を見物したばかりです。ただ、実相の世界の美しさは十分に味わいました。それをお伝えしたくて戻ってきたわけです。
 皆さんより一歩高い位置に立ち、皆さんには見えないものがありありと見えている者から、その絶対無の世界を説明すれば、皆さんが50パーセントないしは60パーセント、もしかしたら100パーセント満足するところを、そこまで到達した霊は600パーセントの満足感を得ていると表現してもよいくらいです。これは、満足度を数値で示しただけです。その実感は説明しようがありません。無理して説明すれば「やれやれ、そんなのはご免こうむるよ。オレはこのままで結構だ」などとおっしゃる方がいるかも知れません。病気で療養中の人にはオートバイよりも車椅子の方が喜ばれるでしょう。が、元気盛りの若者にはオートバイの方がいいに決まっています。
 それと同じです。虚相のすべてから解放された絶対的な実相の世界では、人間の想像を絶した創造の営みが続けられているのです。
 それは、虚相の世界にいる、かつての身内の友人を置き去りにして、自分だけ無上の幸福感に浸るというのではありません。前にも述べましたように、この宇宙間に“別離”というものは生じないのです。果てしなく向上して行きながらも、物質界との接触が途切れることはありません。
 個人的存在の次元を超えて“無”の世界へ入っても、かつての縁のあった者とのつながりが途切れるわけではありません。向上するほど愛の扉が広く開かれ、受け入れる間口が無限に広がり、ついには全てを受け入れる絶対愛の域に到達するのです。
 
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