ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
おしまいに
 

 スピリチュアリズムという用語は、残念ながらいろいろと誤解されており、中にはただの占いか好事家の道楽くらいに考え、そういうものに関わるのは危険である――反キリスト的な悪魔の仕業に違いないと決めつけます。しかし、そう考える人たちは不幸にしてスピリチュアリズムのニセモノばかりを見せられ、ホンモノを知らずに間違った先入観から拒否反応を起こしているに過ぎません。
 こうした態度は、ホンモノを知っている人にとっては残念でもあり、不愉快でならないことでしょう。が、これが現実であり、無視できない勢力をもっております。今回の通信のしめくくりとして、その誤解を解き、スピリチュアリズムの真髄を述べておきたいと思います。
 スピリチュアリズムは反キリスト派による策謀ではありません。スピリチュアリズムの教えの中にはキリストが説いた教えの全てが含まれております。ご承知のようにキリストは愛と寛容と助け合いの精神を第一に説きました。“黄金律”というのがそれです。
「何ごとも、人にせられんと思うことは、人にもそのごとくせよ」
 そのほか、いろいろに表現されておりますが、スピリチュアリズムもまったく同じです。
 キリストの弟子の中に不実な男がいたから、あるいはその後のキリスト教会の聖職者の中にも罪深い者が少なくないからといって、それだけでキリスト教を全面的にダメだと決めつけてしまう人はいないでしょう。キリストの教えが宗教倫理として最高のものであることは万人の認めるところです。スピリチュアリズムの霊的思想も、キリストの教えと同じ基盤の上に立っているのです。それもそのはずです、地球圏を支配しているのはキリストの霊(※@)であり、それが摂理となって作用しているからです。
 世界の宗教はその摂理を異なった角度から見て、それぞれの教理としているわけです。ある宗教で奨励していることを別の宗教では禁じていたりするのは、見る角度が異なるからです。そのどちらを取るかは、各自の判断力ないしは理解力によって違ってくるわけです。その段階においてはそれでいいのです。
 真理の全てを網羅している宗教はありません。どの宗教も一面しか説いておりません。そうした中にあって。より高いものを説いている宗教と低いものを説いている宗教、より多くの真理を摂り入れている宗教と少ない宗教とがあるわけです。
 しかし、すべての道は究極的には一つの頂上につながっています。狭くて窮屈な道もあれば、脇道もあります。広くてゆったりとした道もあります。そして天下の公道ともいうべき幹線道路があります。
 スピリチュアリズムは神のハイウェイなのです。

※@――キリストという霊的存在について最も詳しく説いているのは、キリスト教牧師のジョージ・オーエンの自動書記通信『ベールの彼方の生活』の第四巻で、その中で“イエス・キリスト”と並んで“ブッダ・キリスト”という表現が出てくる。その一節を紹介すると――

 ガリラヤのイエスとして顕現し、そのイエスを通して父を顕現したキリストが、ブッダを通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は、真実ではありません。またキリストという存在が一つでなく数多く存在するというのも、真実ではありません。イエス・キリストは父の一つの側面の顕現であり、ブッダ・キリストはまた別の側面の顕現です。しかも両者は唯一のキリストの異なれる側面でもあるのです。
 人間も一人一人が創造主の異なれる側面の顕現です。しかし、すべての人間が共通したものを有しております。同じように、イエス・キリストとブッダ・キリストとは別個の存在でありながら、共通性を有しております。しかし、顕現の大きさからいうと、イエスの方がブッダに優ります。他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、そのすべてにここに述べたことが当てはまります。


 またシルバー・バーチも「イエス・キリストをどう位置づけるべきか」の質問に答えて、こう述べている。

 この問題の取り扱いには私もいささか慎重にならざるを得ません。なるべくなら人の心を傷つけたり気を悪くさせたくはないからです。が、私の知るかぎりを、そして、私か代表している霊団が理解しているかぎりの真実を有りのままに述べましょう。それにはまずイエスにまつわる数多くの間違った伝説を排除しなければなりません。それがあまりに永いあいだ事実とごたまぜにされてきたために、真実と虚偽との見分けがつかなくなっているのです。
 まず歴史的事実から申し上げましょう。インスピレーションというものは、いつの時代にも変わらぬ、顕と幽とをつなぐ通路です。人類の自我意識が芽生えはじめた当初から、人類の宿命の成就へ向けて大衆を指導する者への指導と援助とがインスピレーションの形で届けられてまいりました。地上の歴史には予言者・聖人・指導者・先駆者・改革者・夢想家・賢者等々と呼ばれる大人物が数多く存在しますが、その全てが、内在する霊的な天賦の才を活用していたのです。それによって、それぞれの時代に不滅の光輝を付加してまいりました。霊の威力に反応して精神的高揚を体験し、その人を通じて無限の宝庫からの叡知が地上へ注がれたのです。
 その一連の系譜の最後を飾ったのがイエスと呼ばれた人物です。ユダヤ人を両親として生まれ、天賦の霊能に素朴な弁舌を兼ねそなえ、ユダヤの大衆の中での使命を果たすことによって、人類の永い歴史に不滅の金字塔を残しました。地上の人間はイエスの真実の使命についてほとんど理解しておりません。わずかながら伝えられている記録も汚染されております。
 数々の出来事も、必ずしも有りのままに記述されておりません。増え続けるイエスの信奉者を権力者の都合のよい方向へ誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせた捏造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました。
 イエスは(神ではなく)人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した、大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました。イエスには使命がありました。それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。
 では、バイブルの記録はどの程度まで真実なのかとお聞きになることでしょう。福音書の中には真実の記述もあるにはあります。たとえば、イエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が、聖霊(背後霊団)の力ゆえに威厳をもって訓えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒したことも事実です。心の邪な人間に取り憑いていた霊を追い出した話も本当です。
 しかし同時に、そうしたことが全て、霊的な自然法則に従って行なわれたものであることも事実です。自然法則を無視して発生したものは一つもありません。何人といえども自然法則から逸脱することは絶対にできないからです。
 イエスは当時の聖職者階級から、自分たちと取って代わろうとする者、職権を侵す不届き者、社会の権威をないがしろにし、悪魔の声としか思えない教説を説く者として、敵視される身となりました。そして、彼らの奸計によってご存知の通りの最期を遂げ、天界へ帰ったあと、すぐに物質化して姿を現わし、伝道中から見せていたのと同じ霊的法則を証明してみせました。
 憶病で小胆な弟子たちは、てっきり死んでしまったと思っていた師の蘇りを見て、勇気を新たにしました。そのあとはご存知の通りです。一時はイエスの説いた真理が広がり始めますが、またぞろ聖職権を振り回す者たちによって、その真理が虚偽の下敷きとなって埋もれてしまいました。
 その後、霊力は散発的に顕現するだけとなりました。イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後には、イエスが伝道中に見せた霊力はありません。主教たちは病気治療をしません。肉親を失った者を慰める言葉を知りません。憑依霊を除霊する霊能を持ち合わせません。彼らはもはや霊の道具ではないのです。
 以上、いたって大ざっぱながらキリスト教誕生の経緯を述べたのは、イエス・キリストを私がどう位置づけるかというご質問にお答えする上で必要だったからです。ある人は神と同じ位に置き、ゴッドとはすなわちイエス・キリストであると主張します。それは、宇宙の創造主、大自然を生み出した想像を絶するエネルギーと、2千年前にパレスチナで30年ばかりの短い生涯を送った一個の人間とを区別しないことになり、これは明らかに間違いです。相も変らず古い民話や太古からの神話を後生大事にしている人の考えです。
 ではどう評価したらいいのか。人間としての生き方の偉大な模範、偉大なる師、人間でありながら神のごとき存在、ということです。霊力のすごさを見せつけると同時に、人生の大原則――愛と思いやりと奉仕という基本原理を強調しました。それはいつの時代にも神の使徒によって強調されてきていることです。
 もしもイエスを神に祭り上げ、近づき難い存在とし、イエスの為せる業は実は人間ではなく神がやったのだということにしてしまうならば、それはイエスの使命そのものを全面的に否定することであり、結局はイエス自身への不忠を働くことになるのです。イエスの遺した偉大な徳、偉大な教訓は、人間としての模範的な生きざまです。
 霊的に見れば、イエスは地上人類の指導者の長い霊的系譜の最後を飾る人物、それまでのどの霊覚者にもまして大きな霊力を顕現させた存在です。だからといって私どもは、イエスという人物を崇拝の対象とするつもりはありません。イエスが地上に遺した功績を誇りに思うだけです。
 イエスはその後も私たちの世界に存在し続けております。イエスから直々の激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手がけた仕事の延長ともいうべきこの大事業(スピリチュアリズム)の総指揮に当たっておられるのが、ほかならぬイエスであることも知っております。そして、当時のイエスと同じように、当時の聖職者と同じ精神構造の人たちからの敵対行為に遭遇しております。
 しかし、スピリチュアリズムは証明可能な真理に立脚している以上、きっと成功するでしょうし、また、ぜひとも成功させなければなりません。
 イエスを真実の視点で捉えなくてはなりません。すなわちイエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕であったということです。あなたもイエスの為せる業のすべてを、あるいはそれ以上のことを、為そうと思えば為し得るのです。そうすることによって、真理の光と悟りの道へ人類を導いてきた幾多の霊覚者と同じ霊力を発揮することになるのです。
 
 
 
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