ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
訳者あとがき
 

 心霊研究と交霊会の始まり

 それというのも、この事件がきっかけとなって全米でフォックス姉妹のような霊的媒介者(のちに日本では“霊媒”と呼ぶようになった)と思われる人物が科学者や知識人による研究の対象とされるようになり、交霊会という、霊界との交流の場が各地で開かれるようになっていったからである。
 米国におけるそうした動向の中で特筆すべき人物はニューヨーク州の最高裁判事ジョン・エドマンズであろう。州議会の議長を歴任したこともある屈指の著名文化人であり、有力な次期大統領候補の一人であったために、スピリチュアリズムの真実性を支持する意見を新聞紙上で発表した時は、裁判官ともあろう者が何たること、といった非難を浴びた。
 その主な原因は、当時は死後に関わる信仰はキリスト教が絶対であり、教会は死者と語り合う交霊仝なるものを禁じていたからである。が、真実性を確信しきっていたエドマンズ判事は、どちらを選ぶかの決断を迫られて、いさぎよく判事職を辞任し、余生をスピリチュアリズム思想の普及のために捧げている。〈ニューヨーク・トリビューン〉紙に発表した論文から一部を紹介すると――

 私がこの道の研究を始めたのは1851年1月のことで、それから2年後の1853年4月になってようやく、霊界との通信の実在に得心がいった。その正味2年と2か月に及ぶ期間中に、私は実に何百種類にも及ぶ心霊現象を観察し、それを細かく、かつ注意深く記録した。交霊会に出席する時は必ず筆記道具を持参して可能なかぎりメモし、帰るとすぐ、その会で起きたことを始めから終りまできちんと整理するのが習わしで、その記録の細密さは、私がかつて本職の判事として担当したどの裁判の記録にも劣らぬほどのものだった。
 その調子で記録した交霊会は数にして二百回近く、費した用紙は実に千六百ページにも及んでいる。むろん同一霊媒ばかりでなく、なるべく多くの霊媒の交霊会に出席したが、その折々の事情もまた多様で、二つとして似たような条件の会は体験しなかった。一回一回に何か新しいものがあり、前回とは違っていた。出席者も違っており、現象も主観的なものと客観的なものが入り混じっていた。
 私なりに幻覚を防ぐべく最大限の手段を講じた。というのも、その時からすでに私や同志たちの心の底には、現在こうして生きているわれわれが他界した過去の人物と交信するということがもしも本当だとすれば、これはなんと素晴らしいことではないかという、わくわくするほどの想いが渦巻いていたからである。
 それだけに私は、そうした期待によって理性的判断が歪められてはならないと思い、その予防にも苦心した。それがために、時には極度に懐疑的になることもあった。来世の存在についての確信が揺らぐこともたびたびあったが、そんな時でも私は、どうしようもないほど確定的な事実は別として、疑える点は徹底的に疑ってかかることを恐れなかった。
 したがって勢い、次の交霊会が開かれる時までには。私の胸中に、どうしても突き止めたい疑問点がいくつか宿されていることが多かった。ところが不思議なことに、次の交霊会でその疑問点に真っ向から答えるかの如き現象がよく起きて、その疑問を立ちどころに打ち消してくれることがあった。それで万事すっきりしたのであるが、例によって私は、その日の記録をきちんと整理し、それを数日間、何度も読み返しては前回の記録と比較検討し、なんとかして霊魂説以外の解釈は有り得ないものかと、ありったけの知恵をしぼってみたものである。そんな次第であるから、次の交霊会には必ず新しい疑問と研究課題とを持ち込むことになったのである。
 こうした態度は当然、詐術やペテンに対する警戒心を生む。私もそのために有りとあらゆる手段を講じたものであるが、今その頃のことを思い出すと、いささか苦笑を禁じ得ないものがある。が、ともかくも、そうしたしつこいまでの私の懐疑的態度が生み出す一つ一つの疑問が見事に解決されていったということは、私の研究過程において特筆大書に値する大切な事柄であると思うのである。
 
 
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