日本人の誇り
日本人の覚醒と奮起を期待したい 
藤原正彦・著 文春新書
 

 しつけも勉強もできない

 政治、経済の崩壊からはじまりモラル、教育、家族、社会の崩壊と、今、日本は全面的な崩壊に瀕しています。一般の国民はこれに気付いており、それぞれの分野でそれぞれの関係者が懸命に立て直そうと努力しているものの、どんな改革もほとんど功を奏していません。
 この国の直面するあらゆる困難は互いに関連し、絡み合った糸玉のようになっていて誰もほぐせないでいます。
 例えば先ほど「世界一勉強しない子供達」と言いましたが、これ一つ直すのも至難です。原因が錯綜しているからです。「親や先生が子供に甘くなった」「豊かな社会が人々の考え方を変化させた、一種の文明病だ」まではよいとしても、その具体的原因となるともうジャングルです。
「戦後に定められた教育基本法で個の尊重とか個性が謳いあげられすぎた」
「子供の数が少なくなるにつれ過保護の親が増えた」
「体罰を禁じられた教師が強制力そして指導力を失った」
「テレビゲーム、ケータイ、インターネット、IPodと楽しい遊び道具が多く生まれた」
「人間皆平等ということから先生や親の生徒や子に対する関係が、かつての上下関係から友達関係に近いものとなり、先生や親は権威を失った」
「ページ数も内容も薄い教科書など、カリキュラム内容の著しい質低下により子供は家で勉強をしなくても困らなくなった」
 一生懸命勉強していい高校、いい大学へと進んでも、その先にはまた厳しい競争社会が待っていて、安定した収入、ましてや幸福が保証される訳でもない。勉強なんてバカラシー、と考えるようになった」
「あくせく努力して立身出世し国家や社会につくすより、穏やかな心で自分の好きなことをして一生を過ごしたいと考えるようになった」
 どれもが一理あるのでどうしてよいか困ってしまうのです。教育論とは皆が正しいことばかりを言う迷宮なのです。例えば、元々は欧米の思想である個の尊重は現代社会の常識となっていて、日本人の心にも戦後65年間を経て深く根を下ろしています。少子化に歯止めをかければ過保護がなくなると言っても、先述のように少子化を食い止めるのは一筋縄ではいかず今はむしろ加速中です。
 教師が体罰を取り戻すとなると、自身張り飛ばされたことのない教師が大半となった現在、どんなことが起こるか心配です。また楽しいゲームを学校でならともかく家庭でも禁止するとなると、法的な問題や自由とか人権侵害といった小うるさいことがでてきそうです。「先生は生徒より偉い」とか「親は子より偉い」という当然のことは、今では「人みな平等」に真向から衝突してしまいます。
「学校での勉強をもっと厳しいものにする」というのは当然です。上海の中学を出た後、親の都合で日本の高校に入った中国人の少年は「上海では毎晩12時までかかるほど宿題が沢山出た。日本は少なすぎて心配なくらい」と言っています(SANKEI EXPRESS、2010年12月8日)。
 しかし厳しくすることも現状では多くの抵抗にあいます。数年前の中央教育審議会で臨時委員だった私はこう発言しました。
「指導要領に、基礎基本をきめ細かく指導する、とあるのは素晴しい。ただし、『きめ細かく」を『きめ細かくかつ厳しく』にすればもっとよくなると思いますが」
 すると間髪を入れずある教育学者が「厳しく指導すると子供が傷つく恐れがあります」と高らかに反論しました。
 子供を傷つけてはいけない、というのが社会のコンセンサスとなっていて厳しいしつけも厳しい勉強もできなくなっているのです。この子供中心主義こそが、悪評高くたった数年で終わりとなった「ゆとり教育」の生みの親でもありました。
 また社会や国家につくすという美徳は、GHQが教育勅語を廃止し公より個を尊重する教育基本法を作成すると同時に消滅の運命を定められたと言ってよいでしょう。「公イコール国家イコール軍国主義」という連想を植えつけることで公へのアレルギーを持たせ、日本を弱体化しようとしたのです。公を否定し個を称揚することはGHQが産み、そしてそれを継承した日教組が育てたものですが、これを変えようとする者はGHQの方針になぜか未だに忠誠を尽しているほぼ全てのマスコミにより、直ちに軍国主義者のレッテルを貼られます。
 
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