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自己懐疑は知的態度か 実は江戸末期に来日した欧米人も同じく、日本の封建制度を見て衝撃を受け、歴史学の常識との矛盾を感じ悩んだのです。しかし彼等には目の前の現実という「動かぬ証拠」がありました。だから日本の封建制度の異質を認めざるを得なかったのです。 現代知識人には「動かぬ証拠」が目の前にないからいつまでも懐疑の目を向けるのです。そして何より、知識人にとって、公の場で自分とか自校、自社、そして自国を肯定的に語ること、すなわち自己肯定は無知、無教養、無邪気をさらすことであり、自己懐疑こそがとるべき知的態度なのです。 実は理系知識人は必らずしもそうでありません。理系では独創が命で、そのためには自己肯定が不可欠だからです。自己肯定から生まれる強い意志がなければ世界で初めてのことを成しとげることはとうていできないのです。ところが博識は尊ぶもののさほど独創を尊ばない文系では、知識人の大半が、自己懐疑的であるか、少なくともそういうポーズをとるのです。そのうえ、文系知識人は一般に、物事を「白」とか「黒」と断ずるのは危険、「灰色」と言うのは安全、ということを自己防衛本能として有しています。「灰色」というのは半身の構えであり攻撃や批判をかわすのに好都合な体勢なのです。そして歴史観を語るのは私のようなおっちょこちょいを除き、ほぼ常に文系知識人です。 理系の人間は、専門の学問が難しいうえ、進歩が日進月歩で世界中と競争になっているため、歴史を勉強したり文学を愉しんだりする時間が例外的な人を除きほとんどとれません。研究の第一線を退いてから初めて他分野の書物に向かうことができるという状況ですから歴史観を語るまでには至らないのです。自己懐疑と灰色志向という二つの防衛本能は、当然ながら歴史の専門家が歴史を語る時にとりわけ強く現れます。そこで現代史の教科書においては、白は灰色に、灰色は黒に近い灰色に叙述されるのです。 実はこのような態度は現代知識人に固有のものではありません。英詩人エドウィン・アーノルドが先述の、いささか褒めすぎとも思える絶賛を述べた翌朝の日本の各紙における論説は見物でした。アーノルドが日本のやりとげた政治、経済、工業、軍備の躍進に触れず、芸術、自然、人々のやさしさとか礼節といったものばかりを賞讃したのは、日本蔑視ではないかと憤ったのです。新聞を初めメディアをリードするのは昔も今もほぼすべて、物事を斜めから見て自己懐疑へと持ち込む文系知識人なのです。 先述のジャパノロジスト、バジル・チェンバレンはイギリス人を相手に次の趣旨のことを書いています。 「明治になって教育を受けた日本人のいるところで、あなたが心の底から感嘆する日本の、我々にはなじみのない古く美しい事物について詳しく説いてはいけません。……一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっています。彼らは過去の日本人とは別の人間、別の者になろうとしているのです」 同様のことは、明治9年に東大医学部創設期のお雇い教師として来日し日本人と結婚、30年近くにわたり日本に滞在したドイツ人医師ヘルツも書いています。 「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。教養ある紳士達に日本の歴史について尋ねると、ある人は『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした』と答え、ある人は『われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです』と断言したのです」 チェンバレンの母国イギリスやヘルツの母国ドイツより、はるかに古い歴史を持つ日本の明治教養人がそう言ったのです。 明治期にせよ終戦後にせよ、新しい価値観に立って進もうとする時、とかく日本人は過去を完全に捨て去り身軽になって猛進しようとする性向があるような気がします。終戦後の大ヒット「青い山脈」に「古い上着よさようなら、さみしい夢よさようなら」とあるようにです。無論それはある意味で仕方ないことでしょう。新しい時代の潮流にのり国民一丸となって突き進むことも時には大切だからです。 しかしかつては、そのようなバランス感覚を欠きがちな日本人の国民性に歯止めをかける精神、例えば古くは「和魂漢才」、明治期には「和魂洋才」などがありました。ところが戦後のアメリカ化の過程では今日に至るまでついぞ「和魂米才」は耳に入りませんでした。あたかも「米魂米才」を理想として目指しているかの観があったのです。 |
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