博文が堀川邸の厠(かわや)に忍び孝明天皇を刺殺
孝明天皇の崩御は、1867年1月である。天皇は、徹底した攘夷論者であった。
よって、英国留学で攘夷派から開国派に転じた博文らにとっては、最大の障害でしかなかった。それにしても、後の明治政府の総理大臣が、孝明天皇を刺し殺した……など、まさに驚天動地以外の何ものでもない。
博文による天皇斬殺を公に告発したのは、安重根である。
1909年冬、中国ハルビン駅頭で博文をピストルで銃撃。暗殺した張本人である。
彼は裁判の場でこう証言したのだ。
「42年前、現日本皇帝(天皇)の父君にあたる御方(孝明天皇)を、伊藤さんが失い(殺し)ました。このことは、皆、韓国国民が知っています」
彼は、さらに博文が犯した15もの大罪を逐一あげて、告発した。
さらに文書でも糾弾している(「一五箇条斬奸状」)。
この博文による孝明帝斬殺を裏付けるのが、渡辺平左衛門の証言である。
彼は幕末には大坂城定番を勤めていた。徳川慶喜の命を受けて、孝明天皇の暗殺犯の探索に着手する。徹底した捜査の結果、天皇家の別邸・堀川邸の厠に潜んだ博文が、天皇を下から刺し殺した……ことが判明した。
厠の番人に賄賂を渡し、手引きをしたのが岩倉具視である。真犯人を探しあてた平左衛門は、探索を察知した長州藩の刺客に襲われ、深手の重傷を負う。
そうして、維新のどさくさで、あろうことか、天皇殺人犯が日本国総理大臣になってしまった。悲憤慷慨した平左衛門は、臨終の今際のきわに、子息・宮崎鉄雄氏にことの次第を全て語り遺して、息を引き取っている。
宮崎氏は、この衝撃的事実を、歴史家・鹿島昂氏に証言し、驚愕事実が世に明らかにされたのである。
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