新装版
死者は生きている
萩原玄明・著 ハート出版 
第9章 死者は何を想い続けているか
2.あなたは先祖に殺される

 これでも気が付かぬか

 これ程に大切なことであるにも拘わらず、先祖に、愛のかけらも示さない人が実に大勢います。また、そうした優しい気持ちがあっても、長い間の誤った教えのために、自分の父親、そのまた上の父親と、男親の線をたどって一直線に昔へ遡ったものが、それが先祖だと思っている人がいます。
 伯父や伯母、母親の母親となると、もう先祖と思っていないようです。一体、誰がいつからこういう風に日本人を教育したのでしょう。
 母親の親は、母親の兄が墓守をしてくれているからと、誤った教えをそのまま鵜呑みにして、母親の親、つまり、濃い血のつながりを持つ自分の祖父母を、自分の先祖ではないかのように扱って平気でいます。
 その誤りに気付かないでいたために、何万、いや何百万の人が、事故で怪我をしたり、子供を不慮の災害で失ったり、ならなくても済んだ病気になったり、身体のあちこちが痛くて、歩行困難になったりしています。
 遊びの友達が声をかけて来ているのとは違って、断っても逃げても駄目です。
 苦しみにもがきながらも、大多数の人は、まだ気がつきません。
 誤った教えが、頭の中で凝り固まっているために、
「お祖父さんも、曾祖父も、ちゃんと法事はしているし、この病気は、だから霊障ではない」
と、無知で無力な人間のくせに、死者からの知らせに理屈をつけてしまって、的確に知らせを受けとめません。
 受けとめなければ、わかるまで何度でも、あらゆる方法で知らせて来ます。
 あとになって、ようやく気がついて、もし、あの時、既にこれが死者からの知らせであると気付いていたなら――そう後悔する人のいかに多いことか。
 初めに霊障の形となって、子供が怪我をしたとします。隣近所に何百人も子供がいて、一人も怪我をしないのに、どうして子供が怪我をしたのか。この不思議さは、それを不思議と感じてほしい死者の知らせの手段です。
 何故だろう、不思議だ。わが家は、よその家より運が悪いのだろうか――とは思っても、浮かばれずに苦しんでいる可哀想な先祖がいるというところまで気付きません。そういう発想ができる素地さえありません。
 先祖先祖と話していると、まだ誤解して、父の父の父――と頭の中で追っている人がいますが、何度も申しますように、先祖とは、そんな父方の一本筋ではありません。従って、先亡の、つまり、もう亡くなっている縁者と言った方が誤解が少ないでしょう。
 さて、子供の怪我のあと、すぐであったり、何年かたってからであったり時期はいろいろですが、今度は、妻の異常な行動とか、会社の倒産とか、また、上の子供の登校拒否とか、この世の難行苦行の発生となります。
 そして、遂に、自分本人の大病――というように、次第に霊障は強大化して行きます。
「まだ、わからないのか。これでも気がつかないのか」
 そんな言葉が聞こえはしないかと思える程に、だんだんエスカレートして来ます。
 大抵の人は、この辺で、ようやく、不思議さが、理屈をのり越えて、ふと謙虚な気持ちになって来ます。
 自分の力、人間の力では、どうにもならないことがあるんだと気付くことから、素直さが湧いて来て、結局、私のような者とご縁ができることになります。
 ご縁ができて、霊視をして、そこで、長い間、一家を挙げて知らん顔をしていたような、気の毒な死者がわかったりします。
 それでも「まさか、そんな人が……」と、まだまだ素直になりきれない人も結構おいでなのですから、凝り固まった観念というものは、まことに頑固なものです。
 霊視からご供養へと、順調に進んで、ようやくにして青空の下で跳ねるような家庭に戻れればよいのですが、時として、自分の大病という強い知らせを受けても、まだ、先亡の縁者にまで、思いが巡らず、父親の父親あたりをイメージに浮かべて、
「私を助けろ。助けてくれたら拝んでやる」
などと毒づく人がいます。
 人間が毒づいたところで、死者は人間のように怒ったりしないでしょうが、しかし、知らせ続けて、霊障をもたらすに至っている死者は、
「まだ、これでもわからないのか」
と、なげき悲しみ、苦しみを増大させます。その苦しい想いのパワーは、更にエスカレートして、遂に、生命を奪う形の、最大の霊障となって襲って来ます。
 死者によって殺されるのです。
 これは、脅しでも何でもありません。
 生きてこの世に在るものは、死を恐れておりますが、本来、生命は御佛(かみ)からの戴き物で、こうして生きているのは、大宇宙という視野で眺める時、ほんの仮の姿でしかないのです。死んだのちに、魂が帰る所の方こそが、本当の居場所であるとも言えるのです。
 そうとするならば、死者のささやかな願いにすら気付かずに、そして、果たそうともしない人間は、生きて肉体を持っている必要もないので、本来の居場所に戻されてしまうと考えてみてはどうでしょう。
 生かされている意味の無くなったものは、確かに死んだ方がよさそうです。
 こんなところから、生かされている意味とは何かを、もっともっと人間は考えるべきなのではないでしょうか。
「あなたは先祖に殺される」というショッキングな表現が、単に人の関心をひくための惹句(じゃっく)ではないことを、よくご理解いただけたと思いますが、このことから更に一歩進めてどうしても申し上げたいことは、先亡の縁者は、この世から、愛を以て供養すべきものであり、この世の我々がどう期待したところで、何ひとつしてくれないものであるということです。
 ホトケとは、死者が成佛して、その名になれるものです。
 この世に想いを残している、まだ、死んだことにさえ気付いていない死者が、ホトケであるわけがありません。
 ホトケなら、人を救っても殺したりはしませんが、ホトケではない死者は、本当に、人間を死に至らしめるまでとことんすがって来ることを肝に銘じて下さい。
 死者の世界から見れば、この世に在るのが幸福で死んだら不幸などとは考えていないのです。肉体があるのに何もしてくれないのなら、どっちに住んでも同じだと、罪悪感など全く無しであの世へ呼ぶのです。
 精神主義の、高尚な雰囲気で、先祖を愛し偲ぶことを説けば、説く者が汚れない代わりに、わかって救われる世の人々の数に限りがあります。
 たくさんの人に、先祖の大切さ、魂の存在を心から信じてもらうためには、できる限り生きていたいという人間の本能的心理に訴えてと考えてこの章を書きましたが、しかし、先祖に殺されるというのは、本当に、事実でもあるということを繰り返し申し上げておきたい気持ちです。
 
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