なぜ生きる
高森顕徹・監修 明橋大二 伊藤健太郎 
1万年堂出版 

(4)「なんと生きるとは素晴らしいことか!」人生の目的を達成すれば、現在の一瞬一瞬が、かの星々よりも光彩を放つ

●苦しみの新しい間を楽しみといい、楽しみの古くなったのを苦しみという

 現今は“本当になすべきこと”を探求する、人間らしい精神が危機に瀕しています。科学文明が破壊しているのは、自然環境だけではないようです。
 刹那的快感に救いを求める人が増え、「依存症」の言葉が、ちまたにあふれるようになりました。“わかっちゃいるけどやめられない”、何かにのめり込んでいなければ、じっとはしておれないのです。1日1回はパチンコせずにいられない「パチンコ依存症」や、デパート狭しと買いつづける「買い物依存症」など、何か気晴らしがなければやっていられない、生きづらさの反映といえましょう。
 薬物依存も減ってはいません。経口の覚醒剤も登場し、小学生すら手を出す始末です。中毒者の幻覚による凶悪犯罪も増え、第三次乱用期といわれるようになりました。一人になるとさびしくて、不特定多数と性的関係に走る人が増えています。それらの人にとって性交渉は、漠然とした不満を埋める手段になっているのです。
「今、楽しいことをやればいいんだ。それが、その時その時の、生きる目的。そうやって生きてゆくのはなんのため? そんな面倒な問題は、忘れたほうが面白く生きられるよ」
 そんな人もあるでしょう。本当にそんな主張を貫くことができるのでしょうか、いろいろな「楽しみ」の実態を考えてみたいと思います。
 まず「欲望を満たす喜び」から、見てみましょう。私たちの欲求はさまざまで、おいしいものが食べたい、流行の服が着たい、車が欲しい、恋人がいたら……そのほかあげればキリがありません。欲望を満たすと、不満や苦痛は解消します。その過程で感じる「気持ちよさ」が、欲望を満たす幸福感です。
 たとえば喉が渇いたときにコーラを飲めば、“スカッとさわやか”な快感を覚えます。しかしその気持ちよさも束の間で、もう一口、また一口、と次第に渇きが癒されるにつれ、爽快感は減退します。渇きが減ってゆく過程だけがおいしいと感じられるのです。百パーセント“渇き”がなくなってからのコーラは、逆に苦しいものとなるでしょう。痒いところを掻いている快感が、やがて痛くなるのと同じです。
 不満がなくなると苦痛に変わる。これは「限界効用逓減の法則」と名づけられている、いろいろな場面で見られる現象です。デートの喜びも、新しく始めた趣味の楽しみも、回数を重ねるにつれ、かつての興奮が味わえなくなってくるのではないでしょうか。欲望を満たす“気持ちよさ”は強烈な幸福感ですが、すぐ消え去る宿命は、まぬがれようかおりません。
 苦しみの新しい間を楽しみといい、楽しみの古くなったのを苦しみといわれる、ゆえんです。

●絵を楽しんで描いていたピカソは、筆を置くと不機嫌になった

「どんなときが一番楽しいか」と聞かれたら、趣味に熱中しているときをあげる人が多いでしょう。たとえば水泳で記録に挑戦する、チェス大会で相手の動きを読む、足を踏みはずさぬよう気をつけてロッククライミング、などです。こういった状況では神経が一点に集中し、この危機をどう乗り切るか、どうやって勝つか、“目の前のこと”しか考えていません。「あんなひどいことを言われた」「上司から叱られた」「嫌いな人と今日も会わねばならない」などの、もやもやした感情に煩わされないのです。あれこれ考えず流されるのが、最高の幸せと感じる人が多いから、「無知は至福なり」の諺まであるのでしょう。
 趣味や生きがいの喜びは、欲望を満たす快感と同質で一時的なものですから、楽しいひとときが終わってしまえば、嫌な宿題、やり残した仕事、たまった家事と、つまらない現実に逆戻りです。有名なテニス選手が、コートの外では気難しく、つきあいにくいといわれたことも、絵を楽しんで描いていたピカソが、筆を置いたとたんに不機嫌になったといわれるのも、そのためでしょう。
 ラッセルが『幸福論』で「道楽や趣味は、多くの場合、もしかしたら大半の場合、根本的な幸福の源ではなくて、現実からの逃避になっている」と言っているように、「趣味に熱中する楽しみ」とは、苦痛を一時的に忘れる時間つぶしといえるかもしれません。飲んだ酒に酔っ払っている間だけ、借金を忘れて気持ちよくなっているのと、似たようなものでしょう。
 それでも、「生きる意味なんか考えたって、暗くなるだけ。好きなことに没頭して、しばらくの間でも楽しめれば、十分だ」どこからかこんな放言が聞こえてきます。
「趣味や生きがい」を「酒」にたとえるならば、「酒ほどおいしいものはない。酒がなくて、なんの人生か。酒飲まぬ馬鹿」と言うのと同じです。
 ところが逆に、「こんな面白い人生に、なんで酒やタバコが必要なんだ」と笑う人もいるのです。今の人生を満喫できれば、苦しみやさびしさをごまかす努力は、いりません。「なんと生きるとは素晴らしいことか!」人生の目的を達成すれば、現在の一瞬一瞬が、かの星々よりも光彩を放つでしょう。

●「好きな道を歩いていれば目的地はいらない。歩みそのものが楽しいのだから」 と言う人の、見落としているもの

 学問やスポーツに打ち込んでいるときは、研究することや体を動かすこと自体が楽しいものです。評価されなかったり、試合に勝てなかったにしても、結果は二の次、三の次。真理の探究、記録への挑戦、「求める過程」が喜びだ、人生だ、と言う人がいても決しておかしくはないのです。
「死ぬまで求道」の人生に、限りなき向上心を見て、あこがれるのかもしれません。
「はあー、何をやってもつまらないや」「ホント、がんばっても疲れるだけだよね」
 嘆息の多い「さめた時代」は、なおさらでしょう。
 たとえ「これが私の生きがいだ」と熱中できるものがあったとしても、いつまでもつづくと、言い切れるでしょうか。
 
(中略)

 学問の世界では、研究に埋没した人の、ほんの一握りだけが歴史に名を残します。ところが、あれほど進化論の発見に没頭したダーウィンも、幸福感は得られませんでした。「自分が事実の山をすりつぶして、一般法則をしぼりだす機械か何かになったような気がする」と、こぼしています。
 生きがいによる満足感も、色あせる運命からは逃れられないのでしょう。

「好きな道を歩いていれば、歩みそのものが楽しいのだ。だから、目的地はいらない」と言う人の、見落としているものは何でしょう。
 デュルケムも『自殺論』に論じているように、「歩く行為そのものが楽しいのは、目的なき歩みにむなしさを感じないほど、盲目的な間だけ」です。
 明日、また明日、そしてまた明日が、時の階(きざはし)を滑り落ち、「最後の幕は血で汚され」ています。どんな美しい生涯も例外でないと、パスカルは言いました。
 来し方、行く末を冷静に見つめても、なおかつ「死ぬまで求めつづける、歩み自体が心地よい」といえる人はいるのでしょうか。
 
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