なぜ生きる
高森顕徹・監修 明橋大二 伊藤健太郎 
1万年堂出版 

(5)幸せなのは夢を追う過程 達成すると色あせる「目標」

「近寄れば さほどでもなき 富士の山」目標とはそんなもの――

 プラトンは『饗宴』で、永遠の幸福は万人に共通した目的と論じています。しかし、
永遠の幸福が「万人共通の人生の目的」といえば、「人生の目的は人それぞれだ」と、反論する人もいるでしょう。「ひとりひとり違うから、各人が光っている」と、個性や多様性を重んじるのが現今の風潮だからです。
 「人生の目的は人それぞれ」と言う大が思い浮かべている目的とは、大学合格、英会話をマスターする、スポーツ大会優勝、恋人を得る、安定した職に就く、マイホーム、大金持ちになる、ノーベル賞……などではないでしょうか。しかしそれらは、“とりあえず今はこれを目指す”という、人生の通過駅であり、「目標」と呼ばれるものであって、「人生の目的」といわるべきものではありません。
「まずは受験突破」「つぎは就職」「そろそろ家を」と、変化する「生きる目標」と、「生まれてきたのは、これ一つ」という「人生の目的」との違いを、本章でも確認したいと思います。
「近寄れば さほどでもなき 富士の山」と詠まれるように、遠方から眺めれば秀麗な山も、登ってみると空き缶や散乱するゴミで、失望させられます。私たちの描く「目標」も、遠くにあるときは素晴らしく見えますが、「やった!」とたどり着いた瞬間、何かが心に忍びよります。
 ようやくかなった夢なのに、「得られたものはこれだけか」、ガッカリした体験はないでしょうか。皮肉なことに、苦労を重ね、大きな目標を達成したときほど、「私は何をやっていたのだろう」「こんなことに苦しんでいたのか。もっと何かがあるのでは……」
 拍子抜けしたような、奈落の感覚に一転しやすいのです。
「人間は、努力するかぎり迷うものだ」という、ゲーテ『ファウスト』の言葉にうなずく実例に事欠きません。

●勝ちつづけたが求まらない。求めることの「くり返し」たった――チャンピオンの幻滅の深い傷

(中略)

●もっと金を稼いでおけばよかったと、死の床で後悔した者がいるだろうか

(中略)

●「人生の目的」は「色あせること」も「薄れること」もないもの

 目標に到達した満足感は一時的で、やがて単なる記憶に変色します。
 それに対して「人生の目的」成就の満足は、「色あせること」も、「薄れること」もないところが、全く違うところです。前章で述べたように、私たちの究極の願いは、永続する幸福です。達成したのに、むなしくなったり、思い出しか残さぬものは、「人生の目的」とは呼べないでしょう。
「永続する幸福? 人生の目的? そんなもの、最後まで見つからないよ」と、あきらめる人も、少なくないかもしれません。
 しかし、達成すれば終わってしまう、そんな「目標」だけを追いつづける一生は、どんな人生になるでしょう。目標にたどり着けば「自分は達成した」という一時的満足はあっても、時間とともに薄れ、またスタート地点に逆戻り。「今度こそ……」と、さらなる労苦がはじまります。一点の周りをグルグル回るのみで、「人間に生まれてよかった」という、生命の歓喜は永久にありません。こんな悲劇があるでしょうか。
 報われない人生をショーペンハウエルは、「苦痛と退屈のおいたを、振り子のように揺れ動く」と形容しました。
「卵の殻ほどのもの」を駆け抜け争い、“山のかこうに幸せが住む”希望にあざむかれ、安心も満足もないまま、死の腕に飛び込んでゆく。それが人生ならば、なぜ「地球より重い命」といわれるのでしょうか。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]