なぜ生きる
高森顕徹・監修 明橋大二 伊藤健太郎 
1万年堂出版 

(3)人生を暗くする元凶は何か――正しい診断が急務

●この坂を越えたなら、幸せが待っているのか?

 人はなぜ苦しむのだろう。
 動物は、ポンとたたかれればキャンと鳴いて逃げるだけだが、人間は、なぜたたかれたのか、たたかれずにすむにはどうすればよいか、を考える。
 何ごとも原因を知らなかったり、間違えたりすると大変なことになる。なおる病気も助からない。腹痛でも、胃潰瘍の痛みか、ガンからきているのか、神経性のものなのか、正しい診断がなければ、的確な治療は望めない。当然、患者の苦しみは除かれないだろう。「肛門に目薬」のたとえなら笑ってすまされようが、胃ガンを潰瘍と誤診していたらどうなるか。とり返しのつかない後悔が残るだけ。病因を突きとめることが、治療の先決問題であろう。
 「人生は苦なり」の実相を見つめ、苦に染める元凶は何か、正しく見きわめてこそ、安楽無上の人生が開かれるのである。苦悩の根元の究明が、人類最人の急務といえよう。
 親鷺聖人は苦悩の真因を、つぎのように説破される。

 生死流転(しょうじるてん)の家に還来(げんらい)することは、決するに、疑情(ぎじょう)もって所止となす
     
(教行信証)


 まず「生死輪転の家に還来する」から解説しよう。
 安心、満足というゴールのない円周を、限りなくまわって苦しんでいるさまを、「生死輪転」とも、「流転輪廻」ともいわれる。家を離れて生きられないように、離れ切れない苦しみを「家」にたとえられている。「人生の終わりなき苦しみ」のことである。
 ドストエフスキーはシベリアで強制労働をさせられた体験から、もっとも残酷な刑罰は、「徹底的に無益で無意味」な労働をさせることだ、と『死の家の記録』に書いている。監獄では、受刑者にレンガを焼かせたり、壁を塗らせたり、畑をたがやさせたりしていたという。強制された苦役であっても、その仕事には目的があった。働けば食糧が生産され、家が建ってゆく。自分の働く意味を見いだせるから、苦しくとも耐えてゆける。
 しかし、こんな刑を科せられたらどうだろう。
 大きな土の山を、A地点からB地点へとうつす。汗だくになってやりとげると、せっかく移動した山を、もとの所へもどせと命じられる。それが終わると、またB地点へ……。意味も目的もない労働を、くり返し強いられたらどうなるか。受刑者は、ドストエフスキーが言うように「四、五日もしたら首をくくってしまう」か、気が抂って頭を石に打ちつけて死ぬだろう。「終わりなき苦しみ」の刑罰である。
 だが、人間の一生も、同じようなものだとはいえないだろうか。
越えなばと 思いし峰に きてみれば なお行く先は 山路なりけり
 病苦、肉親との死別、不慮の事故、家庭や職場での人間関係、隣近所とのいざこざ、受験地獄、出世競争、突然の解雇、借金の重荷、老後の不安……。
 ひとつの苦しみを乗りこえて、ヤレヤレと思う間もなく、別の苦しみがあらわれる。
 賽の河原の石積みで、汗と涙で築いたものがアッという間に崩されてゆく。
「こんなことになるとは」予期せぬ天災人災に、何度おどろき、悲しみ、嘆いたことだろう。
この坂を越えたなら/しあわせが待っている/そんなことばを信じて/越えた七坂/四十路坂」の歌(都はるみ)が流行ったのも、共感をよんだからかもしれない。
「この坂さえ越えたなら、幸せがつかめるのだ」と、必死に目の前の坂をのぼってみると、そこにはさらなる急坂がそびえている。そこでまた、よろめきながら立ち上がり、「この坂さえ越えたなら」とあえぎながらのぼってゆく。こんなことのくり返しではなかろうか。そんな人生を聖人は「生死輪転の家に、還来する」と言われているのである。

●オレは前から、ヤシの下で昼寝をしているさ

 人生苦海の波間から、しきりに、こんな嘆きが聞こえてくる。
「金さえあれば」「物さえあれば」「有名になれたら」「地位が得られれば」「家を持てたら」「恋人が欲しい」などなど。
 どうやら苦しみの原因をそこらに見定めて、近くに浮遊する、それらの丸太や板切れに向かって、懸命に泳いでいるようだが、はたして苦海がわたれるのだろうか。
 考えさせる小話をひとつ、紹介しておこう。
 所はある南の国。登場人物はアメリカ人と現地人。
 ヤシの木の下で、いつも昼寝をしている男をつかまえてアメリカ人が説教している。
「怠けていずに、働いて金を儲けたらどうだ」
 ジロリと見あげて、男が言う。
「金を儲けて、どうするのだ」
「銀行にあずけておけば、大きな金になる」
「大きな金ができたら、どうする」
「りっぱな家を建て、もっと金ができれば、暖かい所に別荘でも持つか」
「別荘を持って、どうするのだ」
「別荘の庭のヤシの下で、昼寝でもするよ」
「オレはもう前から、ヤシの下で昼寝をしているさ」
 こんな幸福論の破綻は、周囲に満ちている。

●人生がよろこびに輝いていたのなら、ダイアナ妃の、自殺未遂五回はなぜだった?

人方がそう思うように、金や物、名誉や地位のないのが苫しみの根元ならば、それらに恵まれた人生は、よろこびに輝いていたにちがいない。だが実際はどうだろう。歴史の証言も豊富だが、現実も目にあまる悲惨さなのだ。
 イギリス王室の華・ダイアナ妃の、自殺未遂は5回にも及んだという。美貌といい、シンデレラストーリーといい、“世紀の結婚”とまでうらやまれた彼女も、人知れず苦しむ、一個の人間でしかなかった。日本初のノーベル文学賞に輝いた川端康成が、ガス自殺をとげている。氏もまた苦悩の人であったのだろう。
 女と靴下は、戦後強くなったものの代表とされた。靴下をかくまで強いものにした革命的繊維ナイロンを発明したのは、アメリカのカロザースである。勤め先のデュポン社は、この天才化学者に破格の待遇をしていたそうだ。
「生涯、どこへ旅行をし、どんな高級レストランやバーで飲食しようが、費用の一切は会社が持つ」というのである。カロザーズのご機嫌を損じては一大事。彼の一生の遊び代ぐらいを保証しても、安いものだとデュポン社が考えてもおかしくはなかろう。
 そのカロザースが、41歳の若さで自殺したのだ。
 金や財、名誉や地位のないのが苦悩の元凶ならば、あり得ない結末ではなかろうか。

 田なければ、また憂いて、田あらんことを欲し、宅なければ、また憂いて宅あらんことを欲す。田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共にこれを憂う。有無同じく然り
           (『大無量寿経』)


 「田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。その他のものにしても、みな同じである」
 金、財産、名誉、地位、家族、これらが無ければないことを苦しみ、有ればあることで苦しむ。有る者は“金の鎖”、無い者は“鉄の鎖”につながれているといってもよかろう。材質が金であろうと鉄であろうと、苦しんでいることに変わりはない。
 これを釈尊は「有無同然」と説かれる。
 どれほどの財宝や権力を手にしても、たとえ宇宙に飛び出しても、本当の苦悩の根元を知り、取り除かないかぎり、人生の重荷はおろせないであろう。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]