なぜ生きる
高森顕徹・監修 明橋大二 伊藤健太郎 
1万年堂出版 

(13)“どこにいるのか”本当の私

●他人が、私を探しだせるのか

(中略)

●私が、私を探しだせるのか

(中略)

●隠れ家は 心の底の奥の院

 仏教では、心と、口と、体から私たちを評価する。中でも重視するのは心である。
 日常生活でも、体や口より、心が重んじられる場面によく出会う。
「ネクタイが曲がっている」
といわれれば素直に正せるが、
「根性が曲がっている」
といわれると、素直になれないものがある。ネクタイが曲がっているのも、根性が曲がっているのも同じようなものだが、後者のほうが傷つくのは、人格を侮辱されたように思うからであろう。
 ロシアの文豪ツルゲーネフが貧しかったころ、訪れた乞食に何ひとつ与える物がなかった彼は、“済まない”の念い一杯から、玄関へとび出してゆき、乞食の手をにぎり締め、“兄弟”と涙ぐんだ。後日乞食は、あんなうれしいものをもらったことは、生涯なかったと述懐したという。
「ぼろは着てても こころの錦 どんな花より きれいだぜ」の歌(水前寺清子)も飾られた体よりも錦の心を尊重するからであろう。
 外にあらわれる体や口の行いよりも、見えない心が大事にされるのは、なぜだろう。体や口の行いは、心の指示によるからである。心が火の元であり、体や口の行為は火の粉にたとえることができよう。火の粉は、火の元から舞い上がるように、体や口の行為は、心の表現であるからだ。
「戦争は心の中ではじまるのだから、平和の砦は心の中につくられねばならぬ」と、ユネスコ憲章も宣言する。残虐非道の戦争も、根元は心と見ての訴えであろう。消火も火元に主力がおかれるように、仏教はつねに心の動きに視点がおかれる。

「よもすがら 仏の道を求むれば わがこころにぞ たすね入りぬる」

 二人の禅僧が諸国行脚中、小川にさしかかった。
 美しい娘が、連日の雨で川が増水し、とび越えられずモジモジしている。
「どれどれ、私か渡してあげよう」
 僧の一人が、無造作に抱いて渡してやった。
 途方に暮れていた娘は、顔を赤らめ礼を言って立ち去った。同伴の僧がそれを見て、かりにも女を抱くとはけしからんとでも思ったのか、無言の行に入ってしまった。戒律のやかましい禅宗では、女性に触れてはならないとされているからだろう。
 日が暮れて、女を渡した僧が、
「どこかで泊まることにしようか」
と声をかけると、
「生臭坊主との同宿はごめんこうむる」
 連れの僧は、そっぽを向いた。
「なんだ、まだあの女を抱いていたのか」
 件の僧はカラカラと笑った。連れの僧は、いつまでも抱いていた心の生臭さを突かれて、返す言葉がなかったという。
 問題は、その心にあるのだ。
 心こそ、もっとも重大視されねばならないはずなのに、どんな悪い考えをいだいていても、それだけでは法律や社会問題になったりはしない。所詮は、体や口にあらわれる火の粉しか知ることはできないし、取り締まれないのだからとあきらめ、放置されているようである。これでは、
「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種子は尽くまじ」
の石川五右衛門の辞世を実証するだけとなろう。
 「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」
といわれるように、口や体で造る悪よりも、悪いことを思う罪は、はるかに重いと仏教は指摘する。悪い考えは、悪い体や口の行為の根元だからである。
「よもすがら 仏の道を求むれば わがこころにぞ たずね入りぬる」
 親鸞聖人が高僧と仰ぐ、源信僧都の述懐である。
 自己の真実とは、回心の真実」が問われているのだ。
 他人の言葉や自己評価には、それなりに善悪もあろうが、それが自身の真実といえないのは先に述べたとおりである。
 本当の自分を隠す無明の闇が破れると、どんな自己が見えるのか。
 
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