歴史から消された
日本人の美徳 
 黄文雄・著 青春出版社 2004年刊

 なぜ台湾人は日本人を尊敬しつづけるのか

 私が小学生のころ、母がよく話してくれたのが、日本の三筆の一人といわれる書家、小野道風の話である。カエルが、柳に何度も何度も飛びつく姿を見て、繰り返し練習をして努力することの大切さを学び、書道に励んだという話である。
 勤勉を旨に、一心不乱の精進をして名を挙げた人というのは、この小野道風をはじめ、立志伝中の人物として数多くその逸話が残されている。
 日本人の勤勉さは、山紫水明の豊かな自然に恵まれながら、育まれてきた。普通は厳しさゆえに努力というものが生まれるのだが、日本人はその好条件の上に勤勉・努力という美徳を身に付けた民族なのである。勤労の神々とよほどの深いつながりでもあるのかといいたくなる。
 かなり年を重ねてから、大事業を成し遂げた人も少なくない。
 明治、大正、昭和を通じて活躍したジャーナリスト、徳富蘇峰が『近世日本国民史』を書こうと決意したのが、55歳のときであった。以来35年をかけて、89歳で各巻五百ページ、全百巻の大著を書き上げたのである。
 日本史上初めて、実測によって日本全土の正確な地図を作製した伊能忠敬も生涯勤勉を貫き晩成を遂げた人である。忠敬は千葉県上総に生まれ、18歳のとき、下総佐原村の酒と醤油造りを手がける大地主の家を継ぎ、家業を盛り上げるかたわら、土地改良工事や幕府の依頼により利根川流域の堤防修復工事を指揮するなど、郷土のために尽くした。
 幼少時より算術を得意とし、医術も学び、天文・暦法などの造詣も深めた。50歳のときに家督を長男に譲り、隠居の身分になる。その後さらに江戸に出て改めて天文学を学びはじめた。折しも、洋学が盛んになり、忠敬は西洋暦学に夢中になる。
 このころ、徳川幕府はロシア艦船が近海に出現したことを危惧して、蝦夷地の把握を重大課題としていた。それを知った忠敬は自ら蝦夷地の地図作製を計画し、自費で蝦夷に渡り数力月をかけて測量を敢行した。若いころから手掛けた土木工事の知識と経験もあいまって、詳細な地図を幕府に献上したのだ。忠敬、56歳のときである。
 その成果に満足した幕府は、忠敬に全国の測量を命じ、忠敬は次々に日本各地の測量に出かけ、正確な日本地図を作り上げていくことになる。享年72歳。忠敬の死後、弟子たちによって彼の測量結果を元に「大日本沿海実測全図」と「大日本沿海実測録」が完成され、幕府に上呈された。忠敬の偉業は、幼少時から家業につく間も勉学を離さず、たゆまずつづけたことによる。
 ロシアの代表的な地理学者、クルーゼンシュテルンは忠敬の日本地図を見て「日本人、我を征服せり」と驚嘆したという。
 
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