歴史から消された 日本人の美徳 |
黄文雄・著 青春出版社 2004年刊 |
教科書から外された二宮尊徳の意味するもの 近世において、最も熱心に勤勉を説いたのは、二宮尊徳である。尊徳もまた、日常の労働や経済活動のなかで、徳を積むことができるとした人であった。 戦前の日本では、二宮尊徳といえば勤勉、報徳の象徴的偉人として教科書で教えられた。私の通った小学校には、校門の右側にたきぎを背負って本を読む少年の銅像が建っていた。当時の台湾の公立小学校には、どこもこの二宮尊徳像があったものだ。私の母も説教するときは、二宮尊徳を引き合いにすることが断然多かった。 しかし戦後、二宮尊徳は日本軍国主義のシンボルとして教科書から外された。日教組に抹殺された偉人の一人である。台湾でも、戦後二宮尊徳の像をはじめ児玉源太郎など日本人の銅像は撤去され、その代わりに台湾全土に四万三千基の蒋介石の銅像が設置されたのである。一平方キロメートル当たりに一基ということで、蒋介石の像だらけになった台湾だが、今でも金次郎少年の像が売られている。 二宮尊徳は14歳で父を亡くし、16歳のときに母を亡くしている。以来努力と勤勉、倹約に勤め、清貧に甘んじながら勉学に励み、小田原藩の財政管理にあたり成果を挙げ、その後農政改革に携わり、日本全国の農村の立て直しに、大きな力を振るった。近代日本の礎を担った代表的人物として尊敬を集めた。 実際に、西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、日蓮とならんで、内村鑑三によって日本の代表的偉人として海外に紹介された一人だ。 二宮尊徳が、一番嫌いだったのが「坊主と学者」だという。坊主は現実を無視して来世ばかりを説き、学者は人の言説を右から左に受け売りする輩だという理由からだ。孟子の「恒産なくして、恒心なし」を肝に銘じていたようで、実践、実学を重んじる二宮尊徳からすれば、坊主と学者は無為徒食の輩と断じるのは分かる。 二宮尊徳は哲学として報徳思想を掲げ、実践面では「勤」、「倹」、「推譲」を美徳としている。「勤」とは働くことで、人は働くために生まれたのだから、働くのは当たり前で、よく勤めることが、よく生きることなのだ。働くということは、心を鍛えることでもある。職分に懸命に取り組み、苦労を重ねるうちに心が磨かれていく。 「倹」とは、倹約のことだが、これはケチとは違うことだと強調する。ケチとは貯めたお金の使い道や使い時を知らず、ひたすら財を溜め込むことをいう。しかし倹約は、不測のことが起きたときのためにお金を貯めるためのもので、家族や周りの人間が病に倒れたとき、災害に見舞われたとき、充分にそれに対処するためにするものだ。 そして、「推譲」とは、人に手をさしのべることで、自分か築いた富は、そもそも自分一人でなしたものだと考えるのは間違いだ。ならば、これまで恩恵をこうむった人や社会や国家に、分に応じて差し出すべきなのだ。 報徳思想を実践とともに説いた人だけに、経済に関してもこう直言している。 「道徳を忘れた経済は罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である」(『結果が出るまでやり抜く人 一歩手前で諦める人』永川幸樹・青春出版社) 尊徳の思想の底には、万物への感謝の気持ちがあった。「徳は土にある。宇宙の万物、一木一草に徳が宿っている。人間は大自然のなかで生きているのではなく、生かされているのだ」という。生かされているということを忘れ、感謝の心を失い、唯我独尊に陥れば、不幸や災禍を招くことになるのだというのが、尊徳が大切にした思想である。 尊徳は江戸の天保改革時代の人で、日本軍国主義とは何の関係もない人だ。尊徳を教育の場から追放し、こきおろすことは、日本人の道徳的退廃を象徴する出来事だ。民主、自由、便利、ゆとり、享楽……。尊徳、尚徳、崇徳はもういらない時代となったのだ。 |
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