古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第1章 シルバー・バーチの使命

 スピリチュアリズムの潮流

 シルバー・バーチが地上に戻って心霊的真理つまりスピリチュアリズムを広めるよう神界から言いつけられたのは、のちにシルバー・バーチの霊言霊媒となるべき人物すなわちモーリス・バーバネル氏がまだ母体に宿ってもいない時のことでした。
 そもそもこの交霊会の始まったのが1920年代のことですから、シルバー・バーチが仕事を言いつけられたのは1800年代後半ということになります。バーバネル氏が霊言能力を発揮しはじめたのは18才の時でした。正確なことはわからないにしても、とにかく人間の想像を超えた遠大な計画と周到な準備のもとに推進されたものであることは間違いありません。
 さて言いつけられたシルバー・バーチが二つ返事でよろこんで引き受けたかというと、実はそうではなかったのです。

 正直いって私はあなた方の世界に戻るのは気が進みませんでした。地上というのは、一たんその波長の外に出てしまうと、これといって魅力のない世界です。私がいま定住している境涯は、あなた方のように肉体に閉じ込められた者には理解の及ばないほど透き通り、光に輝く世界です。
 くどいようですが、あなた方の世界は私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなくてはなりません。地上の同志を見つけ、その協力が得られるよう配慮しなくてはなりません。それから私の代弁者となるべき霊媒を養成し、さらにその霊媒を通じて語る真理を出来るだけ広めるための手段も講じなくてはなりません。それは大変な仕事ですが、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証を得ました。そして計画はすべて順調に進みました。


 その霊媒として選ばれたのが、心霊月刊誌Two Worldsと週刊紙Psychic Newsを発行している心霊出版社Psychic Pressの社長であったモーリス・バーバネル氏であり、同志というのは直接的にはハンネン・スワッハー氏を中心とする交霊会の常連のことでしょう。
 スワッハー氏は当時から反骨のジャーナリストとして名を馳せ「新聞界の法王」の異名をもつ人物で、その知名度を武器に各界の名士を交霊会に招待したことが、英国における、イヤ世界におけるスピリチュアリズムの発展にどれだけ貢献したか、量り知れないものがあります。今はすでにこの世の人ではありませんが、交霊会の正式の呼び名は今でもハンネン・スワッハー・ホームサークルとなっております。
 いま私は「直接的には」という言い方をしましたが、では間接的には誰かという問いが出そうです。

 1848年に始まったスピリチュアリズムの潮流は、そのころから急速に加速された物質文明、それから今日見るが如き科学技術文明という、言わば人間性喪失文明に対する歯止めとしての意義をもつもので、その計画の中にモーゼスの「霊訓」のイムペレーターを中心とする総勢50名から成る霊団かおり、「永遠の大道」のフレデリック・マイヤースがあり、さらに、これはあまり知られておりませんが、ヴェール・オーエン氏の「ベールの彼方の生活」のリーダーと名告る古代霊を中心とする霊団がおり、南米ではアラン・カルデックの「霊の書」を産んだ霊団がおり、そしてこのシルバー・バーチを中心とする霊団がいるわけです。
 このほかにも大小さまざまな形でその大計画が推進され、今なお進められているわけです。心霊治療などもそのひとつで、中でもハリー・エドワーズ氏などはその代表格(だった)というべきでしょう。日本の浅野和三郎氏などもその計画の一端を担われた一人でしょう。
 が、分野を霊界通信にしぼってみたとき、歴史的にみてオーソドックス(正統)な霊界通信は右に挙げたものが代表格といってよいでしょう。そのうちマイヤースについて特筆すべき点は、こうしたスピリチュアリズムの流れを地上で実際に体験した心霊家としてあの世へ行っていることです。そしてこのシルバー・バーチについて特筆すべきことは、前四者が主として自動書記通信であるのと違って霊言現象の形で真理を説き、質疑応答という形もとり入れて、親しく、身近かな人生問題を扱っていることです。
 体験された方ならすぐに肯かれることと思いますが、数ある心霊現象の中でも霊言現象が一ばん親しみと説得力をもっています。
 もっとも霊媒の危険性と、列席者が騙されやすいという点でも筆頭かも知れません。が、それは正しい知識と鋭い洞察力を備えていれば、めったにひっかかるものではありません。
 シルバー・バーチも、自分が本名を明かさないのは、真理というものは名前とか地位によって影響されるべきものではなく、その内容が理性を納得させるか否かによって判断されるべきものだからだ、と述べていますが、確かに、最終的にはそれ以外に判断の拠り所はないように思われます。
 
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