日本国民に告ぐ
誇りなき国家は、滅亡する
小室直樹・著 ワック出版 
第1章 誇りなき国家は滅亡する

 外国と日本では「謝罪」することの意味が違う

 はじめに、「謝罪」することの意味について。欧米やアジア諸国と日本とでは、まったくこの言葉の意味が違う。これに、まず注意を喚起しておきたい。周知の人も多いであろうが、無知の人のほうがずっと多いであろう。日本の政治家、役人、マスコミが後者の範疇に入ることは確実である。
 欧米やアジア諸国では、謝罪した人は、謝罪された人に責務を負うことになる。この意味では、両者間の人間関係は対等ではなくなるのである。
 日本ではこれと反対。謝罪すれば、悪いことは「水に流されて」わだかまりは解消する。しかし、諸外国においては、謝罪すれば、悪いことは「水に流されるどころか、逆に水が塞(せ)き止められて」わだかまりが確定される。
 このように、「謝罪」の結果が正反対である。その理由は何か。一つには、諸外国においては客観的規範が存在するのに対し、日本には、かかる規範が存在しないからである。
 日本社会では、諸外国の社会とは違って、ことの「善し、悪し」が、すでに客観的に決まっているのではない。直接的人間関係に漲る「空気」によって決まるのである(山本七平著『「空気」の研究』文春文庫)。そうであればこそ、日本社会では、人間関係を鬱然として暗くしている空気を「謝罪」によって打ち払う。謝罪によって、人間関係は改善される。「先に謝ってしまったほうが勝ち」と言われるのは、この理由による。このように、日本においては謝罪によって紛争は解決されるのである。
 客観的規範が存在する国における紛争解決は、こうはいかない。どちらが正しいかの紛争は、規範の解釈をめぐってなされる(例、法廷における紛争解決=裁判。議会における論争。選挙)。紛争解決における勝ち負けは明確(一義的)でなければならない(例、裁判における判決)。そして、負けたほうは勝ったほうに責務を負う。責務の一例は債務である(英語だと、両方ともオブリゲーション)。
 たとえば交通事故。かつて日本人は、欧米人の交通事故における態度がいかなるものかを知り、驚いたものである。欧米人の場合、双方とも、絶対に「悪うございました「アイムソリー」とは言わない。あくまでも相手の過失を言い立てて争う。なぜなら、謝れば、この紛争に負けて、当該交通事故による損害額をすべて負担しなければならないからである。それが嫌だから、絶対に謝らない。
 日本ならどうか。早い段階で、平謝りに謝れば、「誠意がある」ということになって、賠償金もまけてもらえると思っている。だからすぐ謝る(もっとも最近では、日本人もかなりアメリカナイズされて、交通事故の場合には謝らなくなったが……)。
 この違いがあればこそ、肩を突き合わせたくらいですぐ「謝る」(バートン、アイムソリーなどと言う)アメリカ人が、交通事故においては絶対に謝らないのである。この一例からだけでも、日本と諸外国では、「謝罪」の構造が完全に異なっていることが理解されよう。知らぬは日本人ばかりなり。
 日本政府は、謝罪の構造をまったく知らないだけではない。謝罪の内容が、致命的に破滅的であることに、少しも感づいていない。救いがたい。いや、救済不可能である。政治家失格程度の生易しいことではない。国賊である。
 
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