日本国民に告ぐ
誇りなき国家は、滅亡する
小室直樹・著 ワック出版 
第1章 誇りなき国家は滅亡する

 「従軍慰安婦問題」で言論の自由はないのか

「従軍慰安婦問題」をどう評価するか。評価は主観的なことであり、当然、別の評価もありうる。多くの批判も可能である。
 これに対し、「異を唱える」と言っても、事実の解明は本来、客観的なことではないか。「従軍慰安婦問題は事実ではない」という異の唱え方に対する反論としては、元来、「いや事実である」という再反論しかないはずではないか。反論、再反論、再々反論……の過程を通じて情報は事実に近づいてゆく。この事実接近の過程において、批判はありえても糾弾はありえないのである。
 それなのに、「異を唱えること自体」に対する糾弾とは何ぞや。「異を唱えた」ことの内容が批判されるのではなく、それ自体が悪いというのである。つまり、黙って「承認するべきで、異など唱えてはならない」という論理である。これは言論の自由の論理ではない。ファシズム(とされているところの)論理ではないか。さらに、糾弾の対象は「異を唱えた」人の人格にまで及ぶ。「非人間的な行為として糾弾の対象とされる」とは何ごとか。
「主張」と「その人の人格」の分離。人も知る。これこそ言論の自由の第一歩ではないか。そうでなければ、虚心坦懐に意見を公表することができないではないか。「もの言えば唇寒し」というほどの言論の自由と正反対の考え方はない。他人の言論に対して反論以外の制裁を加えることは、言論の自由の禁忌である。人身攻撃なんかとんでもない。
 その禁忌、人身攻撃が、教科書問題をめぐって盛んに行なわれているというのである。教科書問題の背後に何かあるか。
「こうした『空気』のなかで、自己規制の網の目が縦横に張り巡らされる」(藤岡信勝「反日史観はこうしてつくられる」――『サンサーラ』平成8年11月号)
 自己規制! これこそ、日本ジャーナリズムの痼疾(こしつ=持病)であり、言論の自由を噛み殺す怪獣である。この自主規制というモンスターが、教科書問題をめぐって徘徊を始めた。そも、何の兆しか。
 
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