日本国民に告ぐ
誇りなき国家は、滅亡する
小室直樹・著 ワック出版 
第1章 誇りなき国家は滅亡する

 自由討論なくして、デモクラシーなし

 自由討論こそデモクラシーの根本。いや、デモクラシーとまでゆかずとも学問の根本。占領軍は、「占領政策を批判する」という理由で、反日史観批判を絶対に許さなかった。これこそ、とんでもない言いがかりである。
 占領政策批判ではない。「史観」は、歴史の観方であり、「占領」とも「政策」とも関係ない。個人の良心の問題である。言論の自由と較べてすら、はるかに根源的なことである。
 占領軍は、デモクラシーの根本たる「言論の自由」を、日本人に知られぬままに恣(ほしいまま)に蹂躙した。それなのに日本に「デモクラシー」を広めたと詐称している。それどころではない。占領軍は、デモクラシーにとってさらにずっと根本的である「良心の自由」さえも無視したのであった。これは「アメリカ精神」にすら反することではないか。アメリカ建国の父祖たちは、「良心の自由」を求めてアメリカに渡って来たのではなかったか。
 良心の自由を棄却して行なわれた反日教育は、日本の社会に根づいた。それはデモクラシーの結果ではなく、自己検閲という日本の伝統を巧妙に利用したからであった(この問題については第5章で詳述する)。反日史観を日本に広め、根づかせるにあたっての、マスコミの役割もきわめて大きい。「当局の検閲よりももっときびしい」日本マスコミの自己検閲は、占領軍当局の意を受けて、フルに作動しはじめたのであった。
 それから後は――。
 お先棒を担ぐなんていう生易しいものではなかった。戦前日本のマスコミが主戦論を拡大再生産したように、戦後日本のマスコミは、占領軍をさえ出し抜いて、「自己検閲」のシステムによって、反日史観を拡大再生産して、しっかりと日本の社会に根づかせてしまった。また、反日史観を、日本社会の支配者たる空気にもした。こうなると万事休す。
 反日史観に反対する者は、条件反射的に排斥され、学界からも言論界からも追放される仕組みが出来上かってしまった。それとともに、反日史観としてヴェクトルの向きが固定されたマスコミの自己検閲“制度”も確立された。
 日本に、存在(Seinザイン)と当為(Sollenゾルレン)の区別はない。存在するものは「正しい」とされる。ひとたび正しいとされたが最後、伝統主義によって、どんなに状況が変わっても、やはり「正しい」とされつづける。ゆえに、ひとたび出現した“制度”は存在理由がなくなっても、依然として存続しつづける。
 この伝統主義の呪縛によって、占領軍が去っても、冷戦が終わっても、反日史観と、その方向にヴェクトルが向けられたマスコミの自己検閲“制度”は巨巌(きょがん)のごとく残存することになった。この巨巌に、言論に捌け口を失った「マルキスト」は、しがみついたのであった。かくて、反日史観が日本から噴出する基盤は出来た。かくて、日本自身が、反日史観(日本断罪史観)の不安定な休火山となった。いつ爆発するか。爆発したら、ボンベイの火山どころではない。影響するところ、このうえなく広く大きい。
 
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