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第5章 日本国民に告ぐ | ||
マッカーサーを”救世主”と称えた国会決議 ところが、日本人は、マッカーサー率いる占領軍を征服者としてではなく、解放者として迎えた。昭和26年4月16日、衆参両院は、「マッカーサー元帥に対する感謝決議」を行い、マッカーサーを「悩める敗戦国民に対する救世主」と称え、「わが国独立の機運を促進したる偉大な業績は、国民挙げて感激措く能わざるところ」と絶賛したのである。 マスコミも、「感謝」一色であった。この間の事情については高橋史朗著『検証・戦後教育』(広池学園出版部)に詳しいが、そこで引用されている毎日新聞の記事が頗る傑作である。 「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年もみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八ヵ月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。元帥! 日本はどうやら一人歩きが出来るようになりました。何とお礼をいっていいか。元帥! どうかお体をお大事に」(昭和26年4月17日付夕刊) まるで、どこかの新興宗教の機関紙が教主を称える文章のようだが、これが日本三大紙の一つに載ったのである。 国民の多くもマッカーサーを「偉大なる大聖人」「永久の救世主」「自由公平の使者」「尊敬の的たる人格者」「天使」「女子学生のあこがれの的」などと最大限の賛辞を贈った(高橋前掲書参照)。戦後50年を経た平成の世にも、マッカーサーの記念像が建つ始末である(『フライデー』平成7年9月8日号)。 しかしマッカーサーは、日本人が「救世主」と崇(あが)めたような「人格者」でも「大聖人」でもなかった。たしかに、頭はよかった。米陸軍士官学校を首席で卒業。在学中の平均点が98点以上という空前絶後の成績だった。これは母親の教育のなせる業だった。マッカーサーの母親は、息子の行く先々に付いて「孟母三遷」を繰り返した。マッカーサー家は、つねに最高の教育環境を求めて転居した。 だが、マッカーサーはただの偏差値秀才だった。そして、いわゆるマザコンだった。けっして「人格者」ではなかった。児島襄著『指揮官・下』(文春文庫)によれば、部下はマッカーサーを当てこする歌まで唄っていた。児島氏はこの歌を「名利と安全を土台に超然とするエリート意識のくさみに対する反発をみなぎらせている。中傷というべきかもしれないが、ほかならぬ部下の間から、その種の中傷を招くのは指揮官としては欠格者と判定されかねないだろう」と評している。 戦後日本に偏差値秀才が蔓延(はびこ)ったのはマッカーサーが偏差値秀才だったからだ、と言えば言いすぎか。いずれにせよ、マッカーサーの占領政策はものの見事に大成功。日本の世論は「鬼畜米英」から「日米親善」へと180度の大転換を遂げたのであった。 |
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