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第5章 日本国民に告ぐ | ||
マスコミの戦争責任 戦前すでに自己検閲の“制度”は確立されていた。日本のジャーナリズムは、経済的理由の前に「言論の自由」を放棄していた。 こうなれば、もう一瀉千里(いっしゃせんり)。マスコミが軍部の指図に甘んずるようになるまで時間はかからない。いや、「空気」の支配こそ日本の特性である。「空気」がゆくところ日本もゆく。 「編集者による自己検閲」は、軍部の先走りをするようになった。たとえば、開戦直前の大新聞の論調を見よ。ほとんどこれ、主戦論ではないか。 日本の大新聞は、日清・日露戦争以来の「民間における激烈な主戦論」の伝統をそっくりそのまま引き継ぎ、激烈な主戦論によって、政府、議会を叱咤勉励した。開戦の機を逃すなと――。 日本のすべての大新聞、NHKが、この有り様であった。 われわれは、この間の事情を、特に朝日新聞に見てゆきたい。朝日新聞は日本の代表的新聞であり、記事のレヴェルの高さにおいても、その力においても(例、神風号やA26長距離機での長距離飛行計画など軍部に協力した)、国民に対する影響力においても、抜群だったからである。ゆえに、戦前マスコミの代表例として、ここに登場してもらいたい。 かつて『朝日新聞の戦争責任』(太田出版)という本が出版され、話題になった(初版はリヨン社であったが、何故か間もなく版元から降りた)。そこで紹介された記事を読めば、戦前、朝日新聞が、いかに国民を戦争へと駆り立てたかが一目瞭然である。 「欲しがりません勝つまでは」「撃ちてし止まむ」などの戦時標語も朝日が大政翼賛会などと主催して募集した標語である。朝日はこの標語を紙面で連載したばかりか、日劇(跡地は現在の有楽町マリオン)の壁面に兵士の写真とともに掲示し、国民の戦意を掻き立てた。 昭和17年6月のミッドウェー海戦の敗北で日本軍が攻勢から守勢へと転換した後にも、現在の「天声人語」に当たる朝刊コラム「有題無題」(昭和17年9月21日付)で「大東亜戦はある点では、米食人種とパン食人種の戦いであり、菜食人種と肉食人種の戦い」と述べ、パンは「米と比べ物にならぬ」とこき下ろし、「肉を食うものは、一時的に強い力を出すが持続力がない。長距離を走れば、ライオンは麒麟に負ける」と、まったく非合理的な論調を掲げていた。 敗色が濃厚となった昭和20年になると、紙面には「一億特攻」という言葉が毎日のように登場。昭和20年6月14日の朝刊では「敵来らば『一億特攻』で追い落とそう」と題する記事を掲載。「国民の中にはまだ特攻隊精神に徹しきっていないものがあるのではないか」と述べ、手榴弾の投げ方や竹槍の使い方を図解で紹介し、「老人も女も来るべき日に備えよ」と、ゲリラ戦術による一億玉砕を呼び掛けていたのである。 戦後、朝日はこうした論調を掲げていた責任を軍の規制や国民世論に転嫁しているが、それは筋違いである。朝日こそが軍も世論も引きずっていったのであった。朝日がいかに好戦的かつ扇情的な記事を書いていたか。たとえば、防空演習の無意味さを指摘した信濃毎日新聞の社説(昭和18年8月11日付)や「敵が飛行機で攻めて来るのに、竹槍をもっては戦い得ない」と陸軍をこき下ろした毎日新聞の記事(昭和19 年2月23日朝刊)と比較すれば、よく分かる。 朝日は満州事変以降、国民を対米戦争という破局へ駆り立てた。社長以下全社員が軍に献金、軍用機まで献納した。言論統制で強いられた以上に、「鬼畜米英」と敵愾心を煽った。『朝日新聞社史』によると、満州事変以降、朝日の発行部数は増えつづけ、終戦の昭和20年には満州事変が勃発した昭和6年と比較して2倍以上の部数を記録している。 戦争報道は儲かる商売だった。国民が戦時下で「欲しがりません勝つまでは」と貧窮に喘ぐなか、編集局長は高級料亭で禁止されていた芸者遊びに興じていた。当時の編集局長・細川隆元氏(細川元首相の縁戚)自身がその著書『実録朝日新聞』(中央公論社)ではっきりと書いている。朝日新聞こそ「侵略戦争」のA級戦犯だったのである。 |
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