国家の大義
世界が絶賛したこの国のかたち
前野 徹・著  講談社+α新書

 国論を統一した日蓮聖人

 鎌倉武士は夜陰に乗じて、敵の船に乗り移り、斬り合い、船に火を放つなど勇敢に戦い元軍を苦しめました。一進一退の戦いを続けること、実に41日間。その夜、暴風雨が再び博多湾を襲い、元の船の大半は海の藻屑と消え、残った船は退却していったとされます。そして、無事、帰還した元軍は3万人にも満たなかったと言われています。
 国論を統一した日蓮聖人 鎌倉武士で編成された日本軍が、戦力的には圧倒的に劣勢にもかかわらず、当時、世界最強の元の大軍を退け、防衛に成功した最大の要因は、「神風」が吹いたことにあると言われていますが、私はこの勝利は自然の偶然がもたらしたものではないと思っています。
 確かに元の軍隊には、元に征服され、徴用された朝鮮の兵が含まれていました。こうした理由で、日本を攻めるための船造りにもあまり熱心ではなく、船自体が非常にもろかったのも事実です。当然、兵士の士気も上がらなかったという事情があり、元の船はあっけなく沈んでしまったという解釈もできましょう。
 しかし、『八幡大菩薩愚童訓』という資料には、文永11年(1274年)の文永の役に際し、夜半、炎上する箱崎宮から出発した白装束の決死隊、約30人が矢を射かけて突進したところ、元兵は恐怖に駆られて夜明けも待たずに抜錨し、我先にと退散したとあります。
 この資料は八幡大菩薩の威光を示すために編纂されたものです。そのなかに武士の活躍が記されているわけです。それなのに、このくだりはなぜかあまり注目されていないのですが、考えてみれば博多湾内で多くの船が沈没するような暴風に遭ったら、進んで潮の流れの激しい玄界灘に出ていくでしょうか。たとえば文永の役の約150年後に日本に送られた朝鮮通信使も、夜間に玄界灘を渡ることは厳に戒めていました。
 こうしたことを考えると、当時、鎌倉武士を中心に、日本中が心をひとつにして、外敵からこの国を守るという固い決意に燃えていたことこそが最大の勝因だったということがわかります。でなければ、人類史上最大の版図(はんと)と勢力を誇る元の大軍相手に、弘安の役で1カ月以上も持ちこたえることはできなかったのではないでしょうか。
 実際、文永の役では、元軍は博多に上陸したあと現在の大野城市・太宰府市の手前まで、すなわち約10キロも内陸に進軍しているのです。彼らを押し返したのは、紛れもなく鎌倉武士たちの刀(かたな)だったと言っても過言ではないでしょう。
 さて、当時、必ずしも朝廷と幕府の関係が良かったわけでもありませんし、武士も一枚岩ではなかったのも事実です。それどころか、実権を巡って、裏では互いに対立していました。民衆も蒙古襲来に怯え、自己保身を先に考える人が少なくありませんでした。そのため、国論はなかなか統一を見ず、祖国防衛の気運も高まりませんでした。もし、このような状態のまま、元に攻められれば、たちまち日本は征服されていたでしよしかし、この国難にひとりの宗教家が敢然と立ち上がった。日蓮宗の開祖である日蓮聖人です。
 蒙古襲来に先立ち、『立正安国論』を著した白蓮聖人は、鎌倉幕府の前執権・北条時頼を訪ね、『立正安国論』を差し出し、禅宗と念仏宗の廃止を訴え、「進言を受け入れなければ、北条一門から内紛が起こり、外国からも攻めてくる」と進言しました。
 しかし、時頼はこれを黙殺。日蓮は念仏宗徒からつけ狙われ、鎌倉の草庵は焼き払われ、幕府により伊豆国伊東に流されます。
 が、フビライから幕府に服属するよう要求する国書が届けられたと知るや、再び立ち上がり、幕府に対して再度、『立正安国論』を提出するとともに、幕府の要人、彼らの帰依する他宗の僧侶に、「世を救おうと思う者はあらゆる迫害に耐えよ」と檄を飛ばしました。
 そして、辻説法を始め、次のような言葉で民衆に訴えかけました。
「地域や家族も大切だが、もっと大事なのは国家である。国を護る。これは最高の道徳律である」と。
 日蓮の命を賭した訴えは、人々の心を打ち、日本の国論は一気にまとまり、蒙古襲来を阻止できたのです。
 
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