国家の大義
世界が絶賛したこの国のかたち
前野 徹・著  講談社+α新書

 もうひとつの拉致事件

 次に天下を取った豊臣秀吉も、当初は「一向宗のように武装して権利を求めない限り」という条件ながら、キリスト教の布教を容認する方針を採っていました。ところが、1587年、九州の島津氏討伐に遠征して、考えが一変します。
 いつの間にか、長崎がキリスト教の教会領となっており、そこで寺院がキリスト教徒によって焼き討ちされたと知ったからです。そして教会には、マニラから持ち込まれた鉄砲を始めとして、武器弾薬が大量に貯蔵されていました。
 秀吉は「バテレン(神父)追放令」を発し、小西行長(こにしゆきなが)、高山右近(たかやまうこん)などのキリシタン大名にキリスト教信仰を捨てるよう迫ります。
 白人の宣教師がやっていたのは寺院の焼き討ちだけではありません。宗派によっては日本人教徒を海外に連れ出し、奴隷として使役していました。秀吉が天下を取った頃、スペインでは、イスラム勢力を一掃したフェリッペ二世の絶頂期を迎えていました。秀吉は、フェリッペ二世と情報交換を行っており、ヨーロッパから派遣された宣教師が奴隷として日本人をさらっていることに、書簡で抗議をしています。
 しかし、秀吉の「バテレン追放令」によるキリスト教禁止の方針は徹底しませんでした。海外の情報の窓口を失いたくない、貿易による利益は確保したいといった理由から、南蛮商人の出入りを認めたからです。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]