国家の大義
世界が絶賛したこの国のかたち
前野 徹・著  講談社+α新書

 朝鮮出兵の真の狙い

 秀吉は海外の情勢にも敏感で、ひたひたと寄せてくる西欧列強の侵略の波に、頭を悩ませていました。当時、西欧列強のアジア侵略のフロンティアは、隣国の中国・明に到達しようとしていました。フィリピンのルソン島のマニラにはスペインの、マカオにはポルトガルの拠点が築かれ、やがて明が西洋各国の標的になるのは、時間の問題でした。
 事実、アジアに派遣されたスペインの宣教師たちは、フェリッペ二世に対し、明に攻め込むよう盛んに進言していました。しかし、秀吉の働きかけもあって、フェリッペ二世は慎重策を取り、明の攻撃には踏み切りませんでした。
 外交政策で西欧の動きを牽制する一方、秀吉が意図したのは、明に西欧の東洋侵略の防波堤を築き、食い止めようという壮大な戦略でした。ところが、当時、明は海禁政策を取っており、半ば鎖国状態にありました。そこで、秀吉は朝鮮に対明交渉の仲介役を頼みましたが、朝鮮は拒んだので、ならば朝鮮を通って明に攻め入ると警告します。しかし、朝鮮は再び無視。秀吉は朝鮮に出兵します。
 朝鮮出兵は二度行われましたが、一度目は朝鮮の水軍の頑強な抵抗に遭い失敗、二度目の出兵の翌年、秀吉は死去し、結局、明を討って西欧列強に対する防波堤を築くという遠大な構想は実現しませんでした。
 韓国、北朝鮮の人々は秀吉の朝鮮出兵を日本の帝国主義の原点であり、昔から日本人は他国を侵略する残虐な民族であった証だと主張します。
 しかし、秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮半島を我が手中に収めたいという野望からではなく、西欧の侵略を阻止するためという大義から行われたものでした。当時、朝鮮半島の民衆は、明の言うがままで民を顧みない李氏朝鮮の政治に不満を抱いている者も少なくなく、秀吉軍に協力を惜しまなかったという記録も残っています。
 これは、時代を下ること約三百年、西郷隆盛が唱えた征韓論にも通じるところがあります。当時の朝鮮半島はロシアのターゲットにされており、いったん彼の地がロシアの手中に落ちれば、それは日本の喉元に匕首(あいくち)を突き付けられることに等しかったからです。
 
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