国家の大義
世界が絶賛したこの国のかたち
前野 徹・著  講談社+α新書

 家康の「鎖国」という大義

 次に天下を治め、江戸幕府を開いた徳川家康も、秀吉と同じくキリスト教に危険な臭いを嗅ぎ取り、キリスト教、宣教師を弾圧しながらも、初めは貿易を奨励し、その利益を幕府の財源として確保しようとしました。
 十六世紀末、大名や大商人が盛んに東南アジア方面に船を出し、海外との交易を行うようになりました。そして、江戸幕府が開かれた後は、幕府が国家公認の貿易船であることを証明する御朱印状を発行、御朱印船貿易を奨励しました。これによって幕府は莫大な利益を得るとともに、日本人の間で海外渡航ブームが訪れました。
 しかし、日本の大航海時代は長く続きませんでした。17世紀初め、イギリスとオランダの商船が来航、幕府は長崎の平戸の商館に限り貿易を許可します。イギリス、オランダに貿易を許したのは、両国は純粋に貿易を望んでいるのであって、キリスト教の布教には関心がないと判断したためです。
 イギリス、オランダの商人によって様々な情報がもたらされ、幕府はポルトガルやスペインがキリスト教を広く日本に布教し、征服を企んでいるとの確かな証拠を得ます。
 徳川幕府は、スペイン船の来航を禁じ、日本船の渡航も徐々に制限を加えていきました。そして、1635年には、日本人の渡航・帰国の全面禁止に踏み切ります。さらにキリスト教を完全にシャットアウトするために、その4年後、ポルトガル船の来航を禁止し、オランダ人の商館だけ長崎に移し、海外との窓口を長崎の出島のみに絞りました。
 これが鎖国に至るまでの一連の動きですが、当時の徳川幕府に、海外から日本を全面的に閉鎖しようとの意図があったわけではありません。これはあくまでも、キリスト教の流入を防ぎ、日本を西欧列強の魔の手から守るためでした。そしてそれが、結果的に、鎖国になってしまったのです。鎖国という名も、後世の史家が後で命名したもので、幕府は防衛上、やむなく海外との行き来を禁じたというのが真相です。
 徳川幕府は、できうるなら海外に門戸を開いておきたかった。海外との通商が盛んになれば、財政も潤う。また、西欧列強の侵略を阻止するためには、海外の情報収集は欠かせません。しかし、それ以上にキリスト教が入ってくる弊害が大きいと判断して、長崎の出島という海外への窓口を残しながら、鎖国を行った――にれが真相なのです。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]